先週の土日、テレビ朝日で二日間にわたって松本清張原作のドラマ『砂の器』が放映され、とろあえず録画していたものを数日間かけてぼちぼち見てみました。なかなか面白く見終えることができました。
『砂の器』は以前も連読ドラマがいくつかあったし、最も有名なのは加藤剛主演の映画版でしょう。
そのときも今回も、同様に大いに疑問に感じたことがあります。
和賀英良という名の犯人となる人物は、小さい頃の不幸な出来事からやむを得ず生まれ故郷を去り、父親と二人でお遍路の旅に出て各地を彷徨うという苦難の少年時代を過ごします。ときに食うもの寝る場所にも困るほどの苛酷な旅で、さらにこの少年は旅の途中で世話になった親切な巡査の家まで逃げ出して、いらい行方知れずとなり、以降の少年期・青年期をたった一人でどのように生きてきたかもわからないという設定です。
戦後の混乱期に乗じて、自分の過去を隠すため戸籍まで他人になりすますなど、この男が絶望の淵で逞しく生きてきたというところまではわかります。しかしその男が、一転して今では世間を賑わす天才作曲家兼ピアニスト(もしくは指揮者)として華々しい活躍をしているというのは、どうにも首を捻ってしまいます。
音楽の世界ぐらい幼児教育がものをいう世界もないと思いますが、この少年は、これほどの筆舌に尽くしがたい放浪の年月を過ごしながら、はて、いつの間に音楽の勉強、ましてやピアノの練習などをしたのかと思ってしまいます。
父親と離ればなれになってのち、この少年がどのようにして音楽と出会ったのか、恩師のこと、ましてや音大に行ったなどと説明する場面もセリフも、映画にもドラマにも一切ありません。
もちろんこれはフィクションなのだから、そんなことを言うのは無粋者だと言われるかもしれませんが、いくらフィクションでも、多少の状況的な説得力というのは必要であって、この点の設定の曖昧さ不自然さは、見ていてずっと気に掛かるし、そのせいでこの作品が大きな弱点をもっているように思えてしまいます。
今回のドラマでは売れっ子の作曲家兼指揮者に扮し、大きなホールで自作の曲を発表するコンサートが華やかにおこなわれ、オーケストラを熱っぽく指揮して喝采を浴びるシーンがありましたし、昔の映画では最後のクライマックスがやはり自作のピアノコンチェルトを演奏中、舞台の袖で刑事達が取り囲むということで、いずれも時代の寵児ともてはやされる天才音楽家という設定です。
まるで「天才」といえば、勉強も修行もしないで、パッと魔法のように作曲でもピアノ演奏でもできるといった趣です。
松本清張はよほど音楽に疎かったのか、世に立つ音楽家は例外なく幼少時から厳しい研鑽を積み重ねることが不可避であることを、もしかしたら知らなかったのかもしれません。
ことに天才ともなれば、言語よりも先に音楽の才能をあらわすことも珍しくはなく、周囲もその天才を正しく開花させるべく最善の教育を与えながら成長していくものですが、この和賀英良は音楽とはなんの関わりもない北陸の山間の村に生まれて、貧しく厳しい放浪の半生を送るというのですから、いくらなんでもちょっと無理があるのでは?という気がするわけです。
さて、今回のドラマでは、大詰めの場面で、和賀がピアノを弾きながら作曲中とおぼしきシーンがありましたが、そこには2度ほど古いブリュートナーが出てきたのは意外でした。
いかにも年季の入った艶消しのボディと、現在のものとは違って大きく流れるような筆記体のロゴは、おそらくは戦前のものだと思われますが、こんなドラマにこんな珍しいピアノが出てきたのはどういうわけかと思いました。