グールドのピアノ

「グレン・グールドのピアノ」という本を読みました。

グールドはその独特なタッチを生かすために、終生自分に合ったピアノしか弾かず、それがおいそれとあるシロモノではないために、気に入ったピアノに対する偏執的な思い入れは尋常なものではなかったことをあらためて知りました。

彼がなによりも求めたものは羽根のように軽い俊敏なタッチで、これを満足させるのがトロントの百貨店の上にあるホールの片隅に眠っていた古びたスタインウェイでした。
グールドはこのCD318というピアノで、あの歴史的遺産とも言っていい膨大な録音の大半を行っています。

1955年に鮮烈なデビューを果たしたゴルトベルク変奏曲は別のスタインウェイだったのですが、これが運送事故で落とされて使えなくなってからというもの、本格的なグールドのピアノ探しがはじまります。
そして長い曲折の末に出会ったのがこのCD318だったわけですが、実はこのピアノ、お役御免になって新しい物と取り替えられる運命にあったピアノだったのです。

ニューヨークのスタインウェイ本社でも、グールドの気に入るピアノがないことにすっかり疲れていたこともあり、この引退したピアノは快くグールドに貸し与えられ、そこからグールドは水を得た魚のように数々の歴史的名盤をこのピアノを使って作りました。

グールドはダイナミックなピアノより、音の澄んだ、キレの良い、アクションなど介在しないかのような軽いタッチをピアノに求めました。驚くべきは1940年代に作られたこのピアノは、グールドの使用当時もハンマーなどが交換された気配がありませんでしたから、ほぼ製造時のオリジナルのピアノを、エドクィストという盲目の天才的な調律師がグールドの要求を満たすよう精妙な調整を繰り返しながら使っていたようです。

しかし後年悪夢は再び訪れ、このかけがえのないCD318がまたしても運送事故によって手の施しようないほどのダメージを受けてしまいます。フレームさえ4ヶ所も亀裂が入るほどの損傷でした。録音は即中止、ピアノはニューヨーク工場に送られ、一年をかけてフレームまで交換してピアノは再生されますが、すでに別のピアノになっており、何をどうしても、以前のような輝きを取り戻すことはなかったのです。

それでも周囲の予測に反してグールドはなおもこのピアノを使い続けるのです。しかしこのピアノの傷みは限界に達し、ついにグールド自身もこのピアノを諦め、あれこれのピアノを試してみますがすべてダメ。そして最後に巡り会ったのがニューヨークのピアノ店に置かれていたヤマハでした。この店の日本人の調律師が手塩にかけて調整していたピアノで、それがようやくグールドのお眼鏡に適い、即購入となります。
そして、死の直前にリリースされた二度目のゴルトベルク変奏曲などがヤマハで収録されました。

ただし、グールドがこだわり続けたのは、なんといってもタッチであり、すなわち軽くて俊敏なアクションであって、音は二の次であったことは忘れてはなりません。音に関してはやはり終生スタインウェイを愛したのだそうです。
この事を巡って、当時のグールドとスタインウェイの間に繰り返された長い軋轢はついに解消されることはなく、ヤマハを選んだ理由も専らそのムラのないアクションにあったようで、やがてこのピアノへの熱はほどなく冷めた由。

たしかに、アメリカのスタインウェイ(とりわけこの時代)の一番の弱点はアクションだと思いますが、これを当時のスタインウェイ社に解決できる人、もしくはその必要を強く認めた人がついにいなかったのは最大の不幸です。

のちにアメリカの調律師でさえ、現在の最先端修復技術があれば事態は違っただろうと言っていますし、当時のグールドの要求を実現してみせる技術者は、実は40年後の日本にこそいるのではとマロニエ君は思いました。
現在の日本人調律師の中には、グールドが求めて止まなかったことを叶えてみせる一流の職人が何人もいるだろうと思うと、タイムマシンに乗せてトロントへ届けてやりたくなりました。

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