監督の責任

現代の演奏が、店頭に並ぶつややかなフルーツのように、味よりも見てくれを重視して仕上げられていくというのはまったく商品主義のあらわれというべきで、悪しき慣習だと思います。
とりわけ録音演奏では、その傾向がより顕著になるようです。

もちろんセッション録音はライブとは性格が違うので、明らかなミスや不具合があってはならないのはわかりますが、それを求めるあまり音楽が本来もつ勢いとか、生命感までもが損なわれるのはなにより許しがたいことです。
おそらく現代の価値観を反映した結果で、目先のことに囚われて、大事な本質がなおざりにされるのはまさに本末転倒というほかありません。

感動は薄くても落ち度だけは努々無いようにそつなくまとめるという、現代人の気質そのものです。

録音に関しては、とりわけ有能なディレクターが関わらないと、昨日書いたピアニストのような失敗作が生まれる可能性が大だと思います。
録音現場ではディレクターの存在は大きく、ときには演奏家をも上回る権力と重責があるとも言われますが、それも頷ける話で、演奏者はひたすら演奏に専心するわけで、それを統括する芸術性のある責任者・判断者が必要となります。

プレイバックはもちろん演奏者本人も聴きますが、そこで有効な方向を指し示すのはディレクターの役目です。
演奏者が迷っているときに、「もっと自由に」「もっと情熱的に」と言うのと「もう少し節度を持って」「落ち着いてテンポを守って」と指示するのでは真逆の結果がもたらされるでしょう。

とりわけセッション録音には、ライブのような一期一会の魅力はない代わりに、何度も取り直しができるのですから、演奏者の持つ最良の面を理解し、そこを引き出しつつ、限界すれすれのところを走らせるべきだと思うのです。
そのためにも音楽に対する造詣と、演奏者の資質や個性に対する深い理解が求められます。

そういう能力を発揮して、演奏者からは最良の演奏を引き出すべきなのであって、ただ表情の硬いだけの、車線からはみ出さない安全運転をさせるだけなら、そんなディレクターはいないほうがまだましです。

時代の趨勢と言うべきですが、こんにち音楽の世界で最も幅をきかせているのは「楽譜に忠実に」という考え方で、それが絶対的な価値のようになってしまっています。
この流れに演奏者はがんじがらめとなり、若い人はその中で育つから、自分の感性をあらわにする主観的情緒的な演奏が年々できなくなってしまっているようですが、これは音楽の根幹を揺るがす深刻な問題だとマロニエ君は思います。
それはつまり、演奏家から最も大事な冒険や躍動や霊感を奪い取ることに結果としてなっていると思われるからです。

よく、目を閉じて聴いていると器楽のソロもオーケストラも、現代の演奏は誰が弾いているのかさっぱり区別がつかないと言われますが、まったく同感で、そんな同じような演奏家を何十何百と増やしても無駄だと思います。
それに輪をかけたように、凡庸この上ないCDをどれだけ作り重ねても、嬉しいのは当人およびその周辺の人達だけで、社会的にはほとんど意味を失います。

そして最終的にはそういう演奏家や、その手のCDの氾濫によって、結局それがまわりまわってお互いの足を引っぱる結果となるのですから、みんなでせっせと市場を疲弊させ落ち込ませているようなもので、この流れには早く終止符が打たれることを望んでいます。
そのためにも、芸術監督には演奏家を勇気づけ、叱咤激励して、魅力的なCDを作って欲しいものです。

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