ヨーロッパ人の有名ピアニストによるプライベートなコンサートがあり、仲間内と聴きに行ってきました。
雰囲気のある美しい会場で、コンサートも楽しめるものでしたが、その暑さには参りました。
このところエアコン依存症のことを書いていた矢先だっただけに皮肉だったのは、会場の空調が思わしくなく、暑苦しさにめっぽう弱いマロニエ君は、正直音楽なんてどうでもよくなるほどフラフラになってしまいました。なにかの修行のように暑かった。
ところで、小さな会場のコンサートには、一般的なホールのそれとは違った味わいがあるといわれますが、定義としてはいちおう理解はしても、ホールのほうが優れている面も多いとは思います。
しかし、巷では普通のホールでのコンサートにめっぽう否定的で、小さなサロンコンサート的なものを必要以上に有り難がって称賛する一派があるのは、いささか考えが偏りすぎじゃないかと思います。
(今回のコンサートとは直接関係はない話ですが)この手の人達の主張としては、音楽とはそもそもそれほど大きな会場で大向こうを唸らすためのものではなく、小さな会場で行われるものこそが、もっとも本来的に正しく、味わい深く、音楽の感動も深く、演奏者の息づかいを直に感じ、生の感動が得られる理想的なもので、それがいかにも贅沢だというようなことを胸を張って言いますし、心底そう信じているようにも見受けられます。
これは、言い分としてはわからないでもない部分もあり、例えばNHKホールとか東京国際フォーラムみたいな巨大会場でピアノなんぞ聴いても、音は虚しく散るばかりで、たしかにこれが本来の姿ではないでしょう。
しかしながら、大きめのホールの演奏会すべてに批判的で、小さな会場のコンサートばかりを最良のものと言い募る主張にも、現実的には大いに疑問の余地ありだと思うわけです。
マロニエ君自身、小さな会場のコンサートにはもうあちこちずいぶん出かけてみましたが、結果として納得できるものであった記憶は、実をいうとほとんどありません。
理由はそのつどさまざまですが、ひとつ共通して言えることは、小さい会場には小さい会場固有の弱点が多々あり、けっして上記のような良いことばかりではないからです。
具体的には、やはり狭いところに人が鮨詰め(一人あたりの前後左右の寸法はホールの固定席より遙かに狭い)となり、息苦しい閉塞感に苛まれること、イスが折り畳みなど小型の簡易品になるので、これにずっと座り続けることの身体的苦痛(骨まで痛くなる)、奏者も含め大抵は同じ高さの平床なので最前列以外は見たくもない他人の後ろ姿ばかりが眼前に迫り、演奏の様子など満足に見えたためしがない、小さな空間では響きらしきものも望めず、楽器との距離が近すぎて音は生々しく演奏が響きによって整えられない、ピアノもほとんどがコンサートに堪えるような楽器ではないなど、現実はやむを得ない妥協と忍耐の連続なわけです。
だからサロンコンサートなんて言葉だけは優雅なようでも、現実には快適なホールにはるかに及ばない厳しい諸要素が少なくないわけです。遊びならどんなに素晴らしいスペースであっても、それがひとたびコンサートともなれば、ちっちゃな空間故の限界が露呈するというのが掛け値のない現実だと感じます。
要するに、普通の住環境でも、なにも豪壮広大な邸宅で暮らしたいとまでは思いませんが、できることならゆとりのあるそこそこの広さをもった住居が望ましいわけで、狭くて小さなマンションこそが理想的で贅沢で味わい深いなんてことはまさかないでしょう。
これと同じで、音楽がゆっくりと翼を広げられるだけの、ゆとりのある場所にまず奏者や楽器を据えてから、しかる後に奏される音楽に身を浸したいものだと思うのです。
そういうわけで、べつにマロニエ君は小さなコンサートというものを頭から否定するものではありませんが、最終的・総合的に最も心地よくコンサートが楽しめるサイズがどれくらいかと考えた場合、一般的に言うところの中ホール(500人〜800人ぐらいな規模)ぐらいで行われるコンサートだろうと、個人的には思うのです。
東京では紀尾井ホールや東京文化会館小ホール、福岡なら福銀ホールぐらいのサイズです。