モーツァルトの極意

『集中力が大事です。どの作曲家でもそうですけど、特にモーツァルトの時は、過敏ではない集中力といいますか…。過敏になってはいけない。ゆったりとしたものが必要な集中力なんです。そこから音の響きができるわけですから、体が緊張していてもいけないし。そういう意味でモーツァルトの演奏は大変です。』

これはずいぶん昔のものではありますが、ピアニストの神谷郁代女史がモーツァルトの演奏に際して語ったもので、さいきん雑誌をパラパラやっているときに偶然これを目にして、それこそアッと声が出るほど激しく同意しました。
…いや、「激しく同意」などというと、まるでさも同じことを認識していたようですが、これは正しい表現ではありません。なんとなくずっと直感的に感じていたものが、明確な言葉を与えられて、考えが整理され、よりはっきりと認識できたというべきでしょう。

それにしても、これは名言です。
これほどモーツァルトの演奏に最も必要な精神的な根底を成すものを的確に見事に表した言葉があっただろうかと思います。まるでその無駄のない言葉そのものがモーツァルトの音楽ようでもあります。

これはすでにひとつの哲学といっても差し支えない言葉であり、モーツァルトへの尊敬と理解をもって弾き重ねた人でなければ表現できるものではありません。弾き手の考察と経験が長い年月の間に蓄積され、そこに自然の息吹が吹き込んで、ついにはこのような真理を導き出すに到達したものと思われます。

マロニエ君はモーツァルトの理想的な演奏(ピアノの)としてまっ先に思い浮かぶのは、ヴァルター・ギーゼキングのモーツァルトですし、ヴァイオリンソナタではハスキル、コンチェルトではロシアの大物、マリア・グリンベルクの24番などがひとつの理想的な極点にあるものだと思っています。

その点では、評価の高いピリスにもある種の固さを感じますし、内田光子などはその極上のクオリティは充分以上に認めつつも、いかにもゆとりのない張りつめた緊張の中で展開されるモーツァルトであることは否定できません。

多くのピアニストがモーツァルトを怖がってなかなか弾こうとしないのも、この神谷女史のいうところの、集中と緊張の明確な区別がつけきれない為だろうと思われるのです。
とりわけモーツァルトのような必要最小限の音で書かれた作品は、一音一音に最大限の意味を持たせようと、あまりに言葉少なく多くを語らねばならないという脅迫観念に苛まれるのだろうと思われます。

神谷女史のお説に依拠すれば、ギーゼキングのモーツァルトなどは、なるほどまったく気負ったところがないばかりか、モーツァルトにおいてさえこの巨匠の磊落な語り口には今更ながら圧倒されてしまいます。
グリンベルク然りで、まさに呼吸と重力に一切逆らうことなく、モーツァルトをありのままにひとつの呼吸として描ききっているのはいまさらながら舌を巻いてしまいます。

どのみちマロニエ君などは、モーツァルトを弾こうなどという大それた考えは持っていませんが、それなりのテクニックと音楽性のあるピアニストであれば、「過敏にならない集中」を旨とすれば、素敵なモーツァルトが演奏できるはずだという気がしてきます。

神谷女史のこの言葉は、どれほどのレッスンにも勝るモーツァルト演奏の極意を授けられたような気がして、なんだかたいそう得をしたような気分になりました。

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