ゆずれないもの

ある調律師の方のブログでの書き込みがマロニエ君の心を捉えました。

概要は次の通り──歳を取るにつれ、少量でもいいから本当に美味しいものだけを口に入れたいように、音楽も同様となり、だからアマチュアの演奏会は「本当にごめんなさい」というわけだそうです。
つまりアマチュアの演奏は聴きたくない、申し訳ないけれどもこればっかりはもうご遠慮したいというようなことが書いてありました。

しかもこの方は調律師という職業柄、我々のように音楽上の自由な趣味人ではないだけに、そこにはいろんな意味でのしがらみなどもあっての上だろうと思われますから、それをおしてでも敢えてこういう結論に達し、しかもそれをブログに書いて実行するということは、よほどの決断だったのだろうと推察されます。

本来ならば調律師という職業上、ときにはそうした演奏も浮き世の義理で、我慢して聴かざるを得ない立場にある人だろうと思われるのですが、それでもイヤなものはイヤなんだ!と言っているわけです。
これをけしからん!と見る向きもあるかもしれませんが、マロニエ君は思わず喝采を贈りたくなりましたし、このように人には最低譲れないことというのがあるのであって、そのためには頑として信念を通すという姿勢に、久しぶりに清々しい気分にさせられました。

同時に、この方はただ単に調律師という職業だけでなく、ブログではあれこれのCDなどに関する書き込みなども見受けられますから、そのあたりを総合して考えると、これはつまり、よほど音楽がお好きな方ということを証拠立てているようです。

音楽というのは知れば知るほど、聴けば聴くほど、精神はその内奥に迫り、身は震え、耳は肥えてくるもので、そうなるとアマチュアの自己満足演奏なんて聴けたものではないし、たとえプロであってもレベルの低い演奏というのは耐えがたいものになってくるものです。

とりわけクラシックのピアノは、弾く曲は古典の偉大な作品である場合が多く、それらの音楽は大抵一流の演奏家による名演などによって多くの人の耳に深く刻みつけられていたりするわけですから、それをいきなりシロウトが(どんなに一生懸命であっても)自己流の酔っぱらいみたいな調子で弾かれたのでは、聴かされる側はいわば神経的にきついのです。

つまり弾いている人にはなんの遺恨はなくとも、苦痛の池にドボンと放り込まれるがごとくで、塩と砂糖を間違えたような食べ物を口にして美味しいというのは耐えがたいのと同じかもしれません。
そんなものに拍手をおくってひたすら善意の笑顔をたたえているというのは、実はこういう気分を隠し持つ者にしてみれば、ほとんど拷問のように苦しいわけです。

それでも、子供の演奏とかならまだ初々しい良い部分があったりしますが、大人のそれには耐え難い変な癖や節回しがあったりで、場合によっては相当に厳しいものであることは確かです。
いっそ思い切り初心者ならまだ諦めもつきますが、始末に負えないのは、中途半端に指が動いて楽譜もいくらか読めるような人の中に、むしろ自己顕示欲さえ窺わせるものがあり、これを前に黙して耐え抜くのはかなり強烈なストレスにさらされることになります。
弾いている本人にお耳汚しですみません…という謙虚な気持ちが表れていたらいくらか救えるのですが。

この調律師さんの言っていることは、本当に尤もなことだと思いました。
ときたま、こういう気骨のある人がいらっしゃるのはなんだかホッとさせられます。

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