ふたつの未完成

ファツィオリの音を聴く目的で購入したトリフォノフのショパンのCDでしたが、ショパンやチャイコフスキーのコンクールであれだけの成績をおさめた人である以上、きっと何かしらこれだというものがあるのだろうと思い、何度も繰り返し聴きましたが(おそらく10回以上)、どう好意的に聴いても、虚心に気持ちを切り替えて接しても、ついに何も納得させられるものが出てこない、まことに不思議なCDでした。

この人の演奏にはこれといったスタイルも筋目もなく、作品への尊敬の念も感じられません。
ロシアには普通にごろごろいそうなピアノの学生のひとりのようにしか思えないし、そこへ輪をかけたようにファツィオリの音にも一流の楽器がそれぞれに持っているところの格調やオーラがないしで、ダブルパンチといった印象でした。

ショパンコンクールに入賞直後の人というのは、ショパンを弾かせればとりあえずビシッと立派に弾くものですが、この人はなにかちょっと違いますね。体がしっかり覚え込んでいるはずの作品においても、必要な詩情とか音楽が織りなすドラマの完成度がまったく感じられず、コンクールを受けるために準備した課題の域を出ず、アスリート的な気配ばかりを感じます。少なくとも音楽として作品に奏者が共感しているものが感じられないし、内から湧き出る情感がない。
解釈もどこか中途半端で、いわゆる正当なものがこの人の基底に流れているとは思えず、こういう人が名だたるコンクールの上位入賞や優勝をしたという事実が、なんとも釈然としない気分になりました。

あんまりこればかり聴いていると、味覚がヘンになってくるようで、なにか気に入った美味しいもので口直しをしたい気分になりましたが、咄嗟には思いつかず、差し当たりすぐ手近にある関本昌平のショパンリサイタルをかけました。

するとどうでしょう。
どんよりと続いた曇天の空がいっぺんに晴れわたったような、思わず両手を広げて深呼吸したくなるような爽快感が広がりました。
関本氏は2005年のショパンでは4位の人で、これは成績としてはトリフォノフよりひとつ下です。
しかし演奏はまことに見事で、折目角目がきちんとしているのに、密度の高い燃焼感が感じられて、聴くにつけその充実した演奏に乗せられてしまい、日本人は本当に素晴らしいんだなあと思います。

ピアノはヤマハのひとつ前のモデルであるCFIIISですが、これがまたよほど調整も良かったのか、ファツィオリとは打って変わって、聴いていていかにもスムーズで洗練された心地よいピアノでした。
上品で、音のバランスもよく、一本の筋も通っています。
音楽性については、むしろ今後の課題だと思っていたヤマハでしたが、このときばかりはその点も非常に優秀だと思いました。人間、どうしても相対的な印象は大きいです。
やはりコンサートピアノはこのように、それを聴く聴衆の耳に美しく整ったものでなくてはダメで、音色や響きをどうこういうのはそれからのことだと思います。

ファツィオリはスタインウェイ一辺倒のピアノの業界に一石を投じたという点では、大変な意義があったと思いますし、それは並大抵のことではなかったことでしょう。とくにパオロさんという創業者にして社長の情熱には心から尊敬の念を覚えますが、現在のピアノの評価としてはマロニエ君はちょっとまだ納得いかないものがあるのも事実です。

非常に念入りに製作された高級ピアノというのはわかりますが、要するにそれが音楽として空間に鳴り響いたときにどれだけ聴く人を酔わせることができるか、これが楽器としての最終的な目的であり価値だと思います。

その点でファツィオリはいろいろな個別の要素は優れているかもしれないけれども、今はまだ過渡期というべきで、それらが有機的に統合されていないと感じるのです。
今の段階では、とても良くできているんだろうけれども、要は「街の工房の音」であって、完成されたメーカーの個性を問うには、まだまだ乗り越えるべきものが多くあるような気がします。

そういうわけで、トリフォノフとファツィオリはなんだか妙な共通点があると思いました。

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