リヒャルトへの耽溺

音楽は他の芸術にくらべると、もっとも悪徳の少ないジャンルだと何かで読んだことがあります。

人が音楽から受ける刺激は直接的なのに抽象性というフィルターを通していて、とりわけ文学のように悪徳の花が咲き乱れるということは、ゼロではないにしても、きわめて少なく、いわば音楽には善玉コレステロールが多いと言うことでしょうか。

でも中には例外があるのであって、その際たるものはヴァーグナーの類かもしれないし、いったんこの広大な海に溺れた者は容易なことでは健全な陸に帰ってくることは稀なようです。
そして最近ちょっとマロニエ君が溺れ気味なのがリヒャルト・シュトラウスなのです。

過去にも何度かこれにはハマった時期があって、オペラなども大作がたくさんあるし、いくつかの管弦楽の名曲、とりわけ交響詩やピアノの入るブルレスケ、あるいは4つの最後の歌などは、まさに豪華絢爛と頽廃の極みで、そのまるで腐りかけの、最も甘味の増した果物のような怪しくも豪奢な響きは、これはもはや悪徳の領域に頭だか片足だかを突っ込んでいるがごとくです。

そして最近、このブログにも書きましたがブロムシュテット/ドレスデン・シュターツカペレによる《ツァラトゥストラはかく語りき》と《ドン・ファン》を聴くようになって、すっかりリヒャルト病が再発してしまいました。
とくに今回は演奏からくる魅力が加わっているために、いっそう重症となっている気配です。

リヒャルト・シュトラウスはとりわけドイツ系の多くの指揮者が手がけていますから、いずれもキチンとした演奏ではありましたが、カラヤンのような人はどうしてもその音楽の聴かせどころをかいつまんでデラックスに強調するし、ベームなどはむしろこの病んだ世界を四角四面に演奏しすぎる印象がありました。
アバドなどはその点では、はるかに柔軟で現代的な鮮やかさをもって聴かせたのは必然でしょう。

ブロムシュテットの演奏を聴いてわかったことは、リヒャルト・シュトラウスだからといって世紀末的に官能的に崩したような演奏をせず、むしろ理詰めの整然たる演奏の中から見え隠れする頽廃であるほうが、作品の凄味みたいなものが倍増するということです。
いかにもドイツ音楽然とした、組織立って容赦なく押しまくるような演奏をしたときに出てくるその怪しい香りは、気分が高揚しながらも神経のどこかが麻痺していくようです。

リヒャルト・シュトラウスの管弦楽作品はいずれもオーケストラの性能を極限まで使い切るようなところがあり、《ツァラトゥストラ》の各所での分厚い官能的響きは、それだけで平常心が奪い取られていくようですし、また《ドン・ファン》のような作品は、音楽を聴いているというよりも、むしろもっと別の体験をしているような錯覚に陥ります。
例えばポルシェや重量級のメルセデスでアウトバーンを超高速で疾走しながら、じりじり迫ってくるアルプスの高い峰などを眺めているような、非常に独善的かつファナスティックな快楽に身を浸すようです。

ドイツものというのは音楽に限りませんが、厳格な土台の上に、快楽主義的な狂気が真面目な顔をしながら踊っているようで、いったんそこに落ち込むと、容易なことでは抜け出せない恐ろしさがあるように感じることがあります。
逆説的に見ると、ドイツこそは根底のところに最も不健全なものを隠し持った国かもしれない…ちょっとそんな気がしてくるのです。

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