昨日の続きで、「ピアノの本」には、もうひとつ興味深いコメントが載っていました。
あるベテラン調律師の方によると、ピアノの音色に対する趣向が次のように述べられていました。
『アメリカ、ことに西海岸では芯のある明るく突き抜けた音色が好まれ、日本人は除夜の鐘のように澄んだ深みのある音色を好み、ヨーロッパではビッグベンの鐘の音のようなどこか濁りを帯びた柔らかい音色が好まれる』
ほととぎすに喩えた信長、秀吉、家康の話のようで、なるほど象徴的な言葉だなあと思いました。
とくに共感できたのはやはり日本人のそれで、澄んだ深みのある音というのは、いかにもそうだろうと思いますし、自分でもやはり行き着くところそういう音を好んでいる、あるいは無意識のうちにそういう要素で音を判断しているような気がします。
アメリカのような明るく突き抜けたというのは、彼らを見ていると納得できるのですが、日本人とはまったくメンタリティが違うと思いますね。とくに日本は文化的な長い歴史もあって、こと芸術に関して無邪気に明るいものを容認はしません。わびさびなどという精神があるように、どうしてもある種の奥深さと、そこに到達する精神的な清澄さを要求するのだと思います。
アメリカのピアノが芯があるかどうかは疑問ですが、どれも音色そのものというよりは、性格的に明るくフレンドリーなのは、アメリカ人の持つメンタリティの表れだろうと思われますし、いわれてみるとたしかにアメリカピアノには夜のような暗闇はない。
その点、日本のピアノはどれひとつとっても、ある種の暗さが漂っているように感じます。
ハデハデな音を出すヤマハでも、その根底には無彩画のような一種のネクラがある。
その意味では暗さをより上手く使いこなしているのはカワイやディアパソンだと思いますし、ボストンにもこの暗さは少しばかり影を落としているかもしれませんね。
ヨーロッパが濁りを帯びた柔らかい音色というのも頷けます。
とくに彼らが重視するのは音の伸びと倍音ではないかと思いますし、濁りに関しては、これがあるほうを好むというよりは、この点では日本人ほど厳しくないだけじゃないかというのがマロニエ君の印象です。
少々濁っていようとそこはあまり頓着せず、それよりは歌があり、ある種の肉感のようなものがあるピアノのほうが好ましいのだろうと思いますね。
例えばファツィオリがわりに評判がいいらしいのは、そういう理由ではないだろうかとマロニエ君は思うのです。その点では日本人はより精神的要素を求め、ひとつひとつの音にも細やかな美しさや観念を欲しがるので、やはりCFXのようなピアノを作りだしたのだろうと思いますし、一方ではベーゼンドルファーのような繊細な美音を紡ぎ出すピアノを高く評価するのかもしれません。
そういう意味ではアメリカピアノとドイツピアノは両極に位置するピアノで、その両方に拠点を持って国籍不明のようなピアノを製造しているスタインウェイというのは、実におもしろいメーカーだとも思いました。