「さん」と「先生」

昨日のブログで「先生」という言葉を何度も使いましたが、マロニエ君は人の呼びかけに際して「さん」と「先生」の区別は人一倍意識しています。
もっと正確にいうと、「先生」はめったなことでは言いません。

世の中には、その人の職業に応じて「先生」をつけて呼ぶことが礼儀に適って正しいことだと思っている人、あるいはそこまで意識しなくても自然にそういう風に呼んでしまう人が少なくありません。

マロニエ君は、自分にとっての恩師ならむろん「先生」と呼びますが、その数は非常に僅かです。
もう一つは、病院で診察してもらう相手は「先生」ですが、たとえ医師でも、ただ単に同好の趣味人としての関係で職業が単に医師というだけなら決して「先生」をつけることはなく、敢えて「さん」と呼ぶようにしています。

そもそもプライヴェートな対等な人間関係の場において、相手の職業がなんであろうとも、そんなことは関係ないことですし、むしろ関係づけることのほうが不適切だと思っているからです。
そもそも「さん」は我が日本で広く通用する立派な敬称なのですら、ほとんどの場合がこれで通用するわけですし、そうあるべきだと思っています。

あるいは、音楽関係でいうなら演奏家、たとえばピアニストで先生もしているような人のことを、多くの人は迷いもなく「先生」をつけて呼びますが、マロニエ君は自分が教えを受けた方、あるいはそう呼ぶことの方が状況的に自然だと判断した場合以外では決して「先生」とは呼ばない主義です。
さらに言えば、ピアニストなどは仮に先生を兼ねていても、「さん」のほうがひとりの演奏家として認めていることにもなるという考えから、マロニエ君は「さん」で呼ぶことのほうに寧ろ敬意を表しているのです。

テレビなどで大学の教授なんかが出てきてその人の専門の話を聞くときに「先生」と呼ぶのはまだ許せるとしても、国会議員に対しても「先生」、弁護士にも「先生」は耳に障るし、さらにおかしいと思うのは、ここ最近はやたらめったら肩書き優先主義で、お笑い出身の知事が現役の頃なんぞ、まわりは「知事、知事」と連発するのには閉口しました。「社長」などというのも部外者までが言うのは過度のへつらい以外のなにものでもない。

総理でも昔は「さん」でした。中曽根さん、細川さん、小泉さんと言うのがテレビであれ普通の会話であれごく当たり前だったのに、最近は管総理、野田総理といちいち肩書きをつけるのが慣習のようになってきたのはなんなのだろうかと思います。巷では味わいのないビジネス用語が幅を利かせ、たおやかな日本語が失われているひとつの兆候のようです。

それらが現役を退くと「元総理」「元知事」とかぎりなくその人の最高位の肩書きを引きずって呼ぶのにはさらにうんざり。どれもただ単に「さん」をつければ充分ではないでしょうか。
そのうち卒業生にたいしても「○○元東大生」とでも言うのかと思います。

ついでですからもう少し言うと、今は自分の親のことを「父」「母」といわず、大半の人達(とくに若い人)は「チチオヤ」「ハハオヤ」と判で押したように言うようになったのは著しい違和感を覚えます。
今どきの心理として「チチが、ハハが」というのはなにか抵抗があるのでしょうか?

驚いたのは、先だって歌舞伎の中村芝翫さんが亡くなって、追悼番組をやっていた折、次男の中村橋之助さんが思い出などをコメントをする際「チチオヤが…」「チチオヤは…」と何度も言うのには、ははあ、成駒屋の御曹司にしてこんなものかと驚きました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です