お鍋はイヤ

時代の風潮もあるのか、ちかごろではいろいろなこだわりや苦手を抱える人が多いものです。

タバコが迷惑というのはマロニエ君もまったく同感であるし、とくに喫煙できる場所が大きく制限させるようになってからというもの、煙のない環境に体が慣れたのか、わずかなタバコの煙でも敏感になりました。
気付くだけでなく、実際それがかなり苦痛になって、どうかすると席を替わりたくなることもあるわけで、野放し状態だった昔を思い出せば自分自身を含めて隔世の感があります。

マロニエ君自身は一度もタバコを吸っていた時期はありませんが、昔は世の中はどこに行ってもタバコの煙だらけで、喫茶店などはほとんどタバコを吸っている合間にちょっと珈琲などを喉に流し込んでいるような感覚だったかもしれませんね。
むろん、喫煙者には何の遠慮も躊躇もなく、どこででも委細構わず思うさまプカプカやっていたもので、今だったら刑事コロンボもあのスタイルはできなかったでしょうね。

こちらも平気なもので、ほとんど白く煙った部屋の中にいてさえ、一向に平気だったことが我ながら信じられません。さすがに辛かったのは車の中で、あの小さな空間だけは苦痛でしたが、逆にいえばそれぐらいほとんど平気だったということですね。

時代は変わり、部屋の掃除から何から、とにかくあれこれとみなさん衛生面などに神経質になってこられたようで、昔はマロニエ君などがどちらかというと神経質なくちで恥ずかしく思っていたものですが、いまじゃとても敵わないといった趣です。

ここまできたかと思うのが、人とは「お鍋をしたくない」という人が意外に多いことでしょうか。
いうまでもなくひとつの鍋を他人とつつき合うのが衛生的感覚的に耐えられないというものですが、個人的にはそこまで究極的にイヤとは思いませんが、もちろん相手次第ではご遠慮したい場合もあります。

ただ、だからといって美味しい鍋料理を全否定するのも忍びないものはあり、これは微妙です。店によっては鍋専用のお箸を置いているところもありますが、それにいちいち持ち替えるのも面倒臭いし、うっかり自分のお箸を鍋に突っ込んでしまうこともあるでしょうから難しいところです。

そんなことより嫌だったのは、昔の宴席などでは、とくに男性は杯のやり取りをすることがひとつの礼儀であり交際上の形式になっていて、マロニエ君の親の世代などではそれがごく当たり前のようでしたが、あれは見ていて内心抵抗がありました。
杯をやり取りする際には形ばかりの杯洗なるものがあるにしても、基本的にはのんだくれの老人やおやじが口を付けた杯でもありがたく頂戴するわけで、それは「お鍋はイヤ」どころの騒ぎではありませんが、昔の日本人は当然のようにこういうことを繰り返しながら互いの情誼を深めながら生きていたようで、これもまた時代ですね。

まあ、杯はともかくとしても、マロニエ君も以前あるところで篤く歓待していただいて、そのことは大変嬉しかったのですが、その折、そこのご主人が焼けた肉やなにかを自分のお箸で次々にこちらのお皿に入れてくださるのは、それがご厚意だけにさすがにちょっと参りました。
そこにも菜箸とかトングのようなものはありましたが、そんなものには見向きもせず、たった今までむこうの口に突っ込まれていたお箸が、方向を変えてこちらへ向かってきては何かをぽんぽん入れてくれるのにはギョッとしましたね。
目の前でそれをやられたら食べないわけにもいかず、もちろん顔にも出さずにありがたくいただきましたが、こういう場合「お鍋はイヤ」な人などは、一体どうするのだろうと思います。

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