CDの打率

あるとき、本当に音楽のわかる方(変な言い方ですが)と話をしていたら、常々マロニエ君が心に秘めていることと全くおなじことを言われたのにはびっくりしました。もちろん嬉しいほうに。

それはひとことで言うと、コンサートであれCDであれ、内容がつまらないものは要するにつまらないのであって、そういうものに我慢して触れているときほどばかばかしくて時間と労力の浪費を痛感することはないというものでした。

とくにマロニエ君が激しく共感したのは、つまらないコンサートに行って生あくびを噛み殺しているよりは、家で気に入ったCDでも聴いているほうが遙かにマシだということでした。
マロニエ君もまったくそれで、優れたCDに聴くことのできる高度な演奏と、それを支える美しい音には圧倒的な世界があるのであって、これは少々の生の演奏会が凌駕できるものではなく、努々CDを馬鹿にしてはいけないということです。

ところが、世の中には「音楽は生に限る」というのを正論だと単純に思い込んで、いまさらみたいなこの建前を強く信じ込み、他者に対してもこれを堂々と繰り返す人がいるわけです。

要するに音楽とは、まずもって生の演奏こそが最上最高のものであって、その点ではCDなどはまがい物の、ウソの、造花のような世界で、非音楽的なもののように主張してきます。生演奏にこそ音楽の本源的な魅力が宿っていて、今そこで生まれ出る演奏こそが真の音楽であり、音も何ものにも侵されない、楽器から出た音が空気を振動させて直接我々の耳に到達する、これぞ本物だと自信をもって言い切ります。

CDなどは音質も人為的に変えられるし、編集なども思いのままで、そうして作られたつぎはぎだらけの虚構の演奏に真の感動などは得られないし、そもそも信用ができないというわけです。
彼らに言わせると、CDはまるで整形美女がスタジオで撮った写真に、さらに修正を加えたものといわんばかりのニュアンスです。

でも、マロニエ君に言わせれば、いくら音質が変えられるとはいっても、基本的に鳴っているものは、それは演奏家の持ち味であれ楽器の音であれ、その本質はどうにも変えようがない。
機械の力でありとあらゆることが可能なようであっても、意外に本質的な部分は変えられないのであって、その証拠に、最近のようにコスト重視の劣悪な録音が、そのまま堂々と店頭に並ぶのはどういうわけだと思います。
本当にどうにでもなるのなら、劣悪な録音でも、最高の輝く音に磨き上げて発売されるはずでは?

CDにも優劣さまざまで、中にはなんだこれは!?と思うようなものもありますが、本当に優秀な録音、素晴らしい演奏、そして楽曲、最高に調整された楽器と、三拍子も四拍子も揃ったものもあるのであって、こういうものを聴く喜びと充実感は非常に純度の高い高度な音楽体験であるとマロニエ君は思います。
同時に、いかに実演実演といってみても、実際のホールでは残響の問題やらなにやらで、純粋に音としては多くの好ましからざる問題を抱えているのも現実ですし、同時に演奏も玉石混淆で、実際に聴いていて、せっせと出かけてきてはこんなつまらないコンサートをガマンして聴いている自分がアホらしくなることも決して珍しくありません。

音楽というものは衣食住ほど差し迫った必要不可欠ではなし、ないならないで人は生きていけるものであるだけに、いわば心の贅沢領域であって、これに触れる以上は一定水準以上のレベルというものを期待したいし、それによって心に満足と潤いが欲しい。
とくに実演でつまらない演奏に触れたときの持って行き場のない、どんより暗い不快感と疲労感は、なんとも表現しがたいものがあります。上記の逆で、何拍子も悪条件の揃った生演奏というのもあるわけで、そんなものに行き当たったが最後どうしようもない。

その点、CDの打率の高さは、実演がはるかに及ばない次元だと思いますが、音楽愛好家にとって実演に期待しないという意見はなかなか表明しにくいものでしたが、しかしこれは現実であって、この方のおかげでマロニエ君もちょっとここに書く気になりました。

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