昨日の続きのような内容になりますが、ホルヘ・ルイス・プラッツという人はサラゴサでのコンサートライブCDを聴く限りでは、相当なピアニストのようです。
彼はロン=ティボーなどで優勝経験もあるようですが、そういった経歴云々よりも、とにかく聴いて訴えるところのある、今どき珍しい大型で懐の深いピアニストです。長くキューバはじめとする地域を活動拠点としていたために、その名はそれほどグローバルではなく、マロニエ君もこのCDではじめて知りました。
いかにも分厚い本物のピアニストらしい人で、写真を見ると恰幅も良く、太い指をしていて、技術的にもなにがきてもものともしない逞しさがあります。いまどきの効率よく器用に弾くだけの草食系ピアニストとは根本的に違い、聴く者を力強く音楽の世界にいざないます。
現在55歳ですから、ピアニストとしても最も脂ののった充実した時期になると思います。
収録曲はグラナドスの『ゴイェスカス』全曲、ヴィラ=ロボスの『ブラジル風バッハ第4番』、ほかレクォーナなどによるオール・ラテン・レパートリーで、その魅力的なプログラムと、そこに繰り広げられる骨格のある見事な演奏は正に大船に乗ったようで、久々に本当のプロのピアノ演奏に触れられたという充実感と満足がありました。
こういう器の大きさをもったピアニストは現代では絶滅寸前で、それだけどこかなつかしくもあり、安心してその演奏に身を委ねることができます。
その力量たるや重戦車のように逞しいけれども、繊細な歌心や音楽の綾なども豊富にもっていて、ピアニストとしてのスケールの大きさと、ステージ人として聴く人に音楽や演奏を楽しませるというプロ意識に溢れている点もこの人の大きな魅力です。
音量やテクニックなどもスーパー級だけれども、なにしろ音楽表現の大きさという点では圧倒されるものがあり、舞台に立つピアニストの資質というものをいまさらのように考えさせられました。
ステージに立つ演奏家は、演奏技術や音楽性は言うに及ばず、あえて人前で演奏するということの根本をなす意味を問うべきで、聴衆になんらかの喜びと満足を与えられなければコンサートをする意味がないわけで、ただ曲をさらってそれをスムースにステージ上で再現すればそれで良しと思い込んでいる人があまりに多すぎるように思います。そんな人に限って口を開けば「聴いてくださる方に少しでも感動を与えられたら…」などと大それたことを言ったりするのも、今どきのお定まりと見るべきかもしれません。
プロの演奏家は、言葉ではなく、演奏を通じて聴衆への奉仕をするという一面がどこかになくてはならないと思います。その奉仕のしかたはそれぞれで、これは決して単純な意味での娯楽性という意味ではないのですが、それを大衆迎合と勘違いしている人も少なくないようです。
手首から先はプロ級の腕を持った人が演奏していても、実体は自己満足的で、大人の発表会の域を出ないコンサートというのが非常に多いことに半ば慣れてしまっていますが、プラッツのようなしっかりした演奏を聴くと、コンサートというのは、ただ漠然と人前で演奏することではないと再認識させられるようです。
あくまでも全般的な話ですが、近年のピアニストは演奏を通じて音楽を総合的に統括するための主観的能力に欠けていると思われます。解釈などの点でもアカデミックで完成されたスタイルがすでに巷にあふれおり、自分の努力や感性によって心底から掘り起こされたものではないことも原因としてあるのかもしれません。
これは演奏者が創造者としての側面を失いかけているような気がしなくもありません。