演奏の真実味

プラッツの演奏を聴くと、いかに演奏者が曲との距離を親密にとっているかが実感されました。
距離というよりも、作品と演奏はほとんど一体のもので、自分自身とほとんど不可分の領域に達しているのは大したものですし、だから演奏に真実がある。
しかし、いまの若い世代は自分の心と作品の情感が重なり合うまで演奏を醸成させるというようなことはとてもやっていられないし、だいいちそういう境地を欲してもいないでしょう。

むしろ今のピアニストが欲しがっていることは、派手なコンクール歴、有名な大物との共演歴、タレント性、人生ドラマなどが生み出す話題性であって、話題性のためには無謀ともいえる全曲演奏の類の記録挑戦者のような行動にも出るようで、まさにアスリート感覚です。

この手のピアニストの演奏を聴いていると、自分の優秀さの誇示やレパートリーの拡大、めぼしい企画へのオファーがあることなどにエネルギーが集中しているようで、演奏はひとくちに言うとどこかウソっぽい。
本当に、心の底からその作品に共鳴して、その作品世界を生きながら演奏しているという実感がなく、ひたすらスケジュールの消化と効率の良い練習に明け暮れているばかりで、それでは心を打つ演奏ができるはずがありません。

それぞれの作品は、まるでたくさんの知り合いのひとりであって、会えば食事をしたり楽しくおしゃべりはするけど、時間になったらサッと終わりにして、もう次の場所で別の人に会っている、そんな印象があるのです。

そんなやり方でも、ピアニストは他人の完成された作品を弾くわけだから、優秀な指さばきでその音符をミスをせずに追っていくことさえできていれば、とりあえず演奏にはなるから、現代ではどうしてもこの面が発達しないと思われます。
そういった意味では、内面的な深い部分の能力が問われないまま未熟な状態でステージに立つという習慣が出来上がっているような気もします。

しかし、昔のピアニストはステージに置かれた1台のピアノ相手に、ひとりでまったくオーケストラに匹敵する仕事をするという気概があったように思いますし、そういうスケールの大きな演奏家としての器と仕込みがあるからこそ、その演奏は観賞に値するものだったのではないかと思います。

昔の演奏家のコンサートでは、それを聴いた人が一生涯忘れ得ないような強い印象とか、ときには衝撃すら与えていたことはそれほど珍しいことではなかったようですが、それはつまりそれに値する大物だけがステージに立つことができるという時代の環境だったからだと思います。

現代は演奏技巧の向上と引き換えに、芸術的真実性はデフレ傾向にあり、ただいかにも練り込まれた解釈やスタイルの規格の枠が、まるでテンプレートのごとくそこらにたくさんあって、若い多くの演奏者は自分の好みに合うものを安易に選び取って型を使っているだけという印象をマロニエ君は免れることはできません。
優れた教師というものも、そういう型を当てはめる効率の良い練習&仕上げの補助をするだけで、心の奥に響く音楽の何たるかを修行させるような往年のスタイルはきっととらないのでしょう。

その人が純粋率直にどう感じて演奏表現を行っているのかということは二の次で、どういう演奏が入試やコンクールで有利で、さらには市場で好まれるかを情報によって分析、それを念頭に置いて、それに合わせて修行しているようで、これじゃあまったくそのへんの企画会社の商品開発と似たような発想といわざるをえません。

まさに安直な商業主義およびそれに準ずるコンサートの氾濫というべきだろうと思います。

昔の演奏家は来日すれば月単位で長く滞在し、その芸術をゆっくり披露して帰っていったようですが、今は空港からホールへ直行、終わればまた別の場所に飛んでいく、「一年の何分の一は飛行機の中」というような時間の中に生きていて、それがエライことのようになっているのは失笑しますね。

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