ソロピアノの第九

管弦楽の作品などをピアノ用に編曲したものは、本当に成功していると思えるものはそれほど多いとは思えず、マロニエ君はそれほどこの分野の賛成派というわけではありません。
しかし、昨年のコンサートで2台のピアノによる第九を聴いてからというもの、こういうものも必ずしも否定できない気になっていたところ、たまたまCD店にソロピアノによる第九があったので購入してみました。

ピアニストは名前だけは知っていたものの、実際の演奏は聴いたことのなかったマウリツィオ・バリーニで、まさにあのマウリツィオ・ポリーニと一字違いのウソみたいな名前のピアニストです。

以前、アンゲリッシュ(Angerich)というアルゲリッチ(Argerich)と非常に字面の似たピアニストがいることを知って驚きましたが、このバリーニというのもファーストネームまで同じだし、つい笑ってしまいます。

さて、その第九ですが、もちろん編曲はあのリストです。
リストはベートーヴェンのシンフォニーをすべてソロピアノに編曲していますし、2台のピアノ版もリストの手によるもので、その生涯に残した膨大な仕事量たるや恐るべきものだと思いますね、つくづく。
演奏はその曲目からしても当然かもしれませんが、ともかく大変な力演・熱演でした。
おそらくはソロピアノとしては最大限の迫力と入魂を貫いた、どこにも力を抜いたところのない、緊張と集中の連続による70分強です。

ただし管弦楽と合唱あわせて百人以上を要する作品を、まさにたった1人で演奏するのですから語り尽くせぬものがあるのは如何ともしがたく、やはりこれくらいの大交響曲になると、せめて2台ピアノは欲しいところです。
しかし、よくよく研究され練り込まれている佳演であることは素直に認めたい点でした。

むしろ疑問に思われたのはピアノでした。
なんと第九をソロピアノで演奏するのに、ファツィオリのF278を使っているのは、これはいささかミスマッチではないかと個人的には思いましたね。
ベートーヴェンの第九をソロピアノで演奏するということは、普通以上にピアノにも重厚で厳しいものが求められ、ピアノとしての器の大きさはもちろん、シンフォニックで多層的かつ強靱な要素が必要なのはいうまでもありません。
とくに音色に関してはドイツ的な荘重で厳粛なものが必要で、やはりそこは最低でもスタインウェイか、できればよりドイツ的なベヒシュタインのようなピアノであるべきではなかったかと思います。

ここに聴くファツィオリは残念ながら音に立体感がなく、ペタッとしたブリリアント系の音であることを感じてしまいます。バリーニ氏も全身全霊を込めながら演奏していますが、その表現性とこのピアノの持つ性格がまったく噛み合っていないというのが終始つきまとっているようでした。

逆にいうとファツィオリの弱点がよくわかるCDとも言えるかもしれず、深遠さというものがとにかくないので、フォルテやフォルテッシモが連続するとこの音や響きの底つき感みたいなものが随所に出てしまって、よけいに平面的になるばかりで、正直いって耳が疲れてくるのです。そして強い打鍵になればなるだけ音がますます蓮っ葉になってくる点がいただけない。
それはたぶん音としてどこか破綻しているからとも思うのですが、こういうドイツの壮大な音楽に対応するだけの懐はまだないと思われ、演奏が悪くないだけによけい残念です。

ファツィオリに向いているのは、スカルラッティとかガルッピのようなイタリアの古典とか、せいぜいモーツァルト、ロマン派でいうならショパンやフォーレ、メンデルスゾーンなどではないかと思います。

第九に話を戻すと、それでも何度か聴いているうちに耳が慣れてきて、やはりそれなりの聴きごたえを感じてしまうのは、ひとえに作品と、それに奉仕する真摯な演奏の賜物だと思われます。
素晴らしい演奏は、最終的には楽器の良し悪しを飛び越えるものだと思いますが、そうはいってもより相応しい楽器であるに越したことはありません。

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