プロムス2011

先日、ロンドン名物のプロムス2011のラストナイトをBSでやっていましたが、いやはやその規模たるや、年々巨大化していくようで久しぶりに見て驚きました。
面白いといえば面白いし、ちょっとウンザリするのも事実ですね。

これはいうまでもなくじっくり音楽を聴くためのコンサートではなく、クラシック音楽を用いたロンドンのお祭りであって、演奏や音楽の良否は二の次だと思います。
まあ、完全にイギリス版の紅白歌合戦みたいなもんですね。

空中から撮影される楕円形のロイヤルアルバートホールは、立錐の余地もないほどの人で埋め尽くされ、豪華な照明の効果とも相俟って、会場それ自体がまるで輝く宝石のようです。

ピーター・マクスウェル・デーヴィスの「慈悲深い音楽」という合唱曲で始まり、バルトークの「中国の不思議な役人」やブリテンの「青少年の管弦楽入門」など、ともかくあれこれの音楽が演奏されますが、個人的にはスーザン・バロックの歌う「楽劇『神々のたそがれ』から、ブリュンヒルデの自己犠牲の場面」がもっとも良かったと思いました。

スーザン・バロックはRシュトラウスやワーグナーを得意とするイギリスの名花ですが、その劇的で力強い美声は、6000人の聴衆で埋め尽くす巨大会場に轟きわたるという感じでした。
すっかりその歌声に満足していたら、お次はラン・ランの登場で、リストのピアノ協奏曲とショパンの華麗な大ポロネーズを演奏。

こう言っちゃなんですが、まったくのお祭り用の芸人ピアニストの演奏で、その音楽性・芸術性の正味の値打ちはいかなるものかは、おそらく大半の人が了解していることだろうと思いますし、それがわからないヨーロッパではないはずですが、それでもこういう人にお座敷がかかるご時世だということでしょう。

この人はいわゆる臆するということのない、鋼鉄のような心臓の持ち主で、派手で巨大なイベントになればなるだけ本人もノリノリになってくるという、恐るべきタフな性格なんでしょうね。
いちいち気に障る滑稽な表情や、音楽の語り口は、わざとらしいしなをつくるようで、ほとんど猥褻ささえ感じてしまいます。もっと単純にスポーツのようにカラリと弾き通せばまだしものこと、まあやたらめったら伸ばしたり引っぱったり無意味なピアニッシモを多用したりと、これでもかとばかりに音楽表現のようなことをやってみせるのがいよいよいただけません。

この人の演奏を見ていると、音楽に酔いしれているのではなく、派手な舞台で派手なパフォーマンスをやっている自分自身に酔いしれ、その快感に痺れきっているようです。
ショパンでもリストでも、どこもかしこもねばねばにしてしまって、間延びして、まったく音楽に生命が吹き込まれないのは疲れるほどで、当然ながらオーケストラの団員もガマンして職務を全うしているのがわかります。

それにしても、このプロムスも今どきの風をまともに受けて、あまりにド派手なイベント性が表に出過ぎているのは、ちょっとやり過ぎの感が否めませんでした。昔はどうだったか、マロニエ君はこの手の催しはあまり興味がないので詳しいことは知りませんが、もう少し自然さがあったように記憶しています。

今はハイドパークやらロンドン以外の他のいくつもの会場と結んでの多元イベントとなり、専らその規模を太らせることにのみエネルギーが費やされているような印象で、その目の眩むような途方もないスケールは、クラシックの音楽イベントという本質からはるか逸脱しているような印象でした。

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