日曜日に録画しておいた新国立劇場の舞台を観ました。
泉鏡花の代表作である『天守物語』ですが、久しぶりに日本語の美しさを堪能しました。
まさに言葉の芸術。
このような作品が日本に存在することが誇りに思えるようでした。
鏡花の台詞は、その発想から言葉の使い方までまったく独創性にあふれ、同時に深い情緒の裏付けがあり、ひと言ひと言が複雑な音符のようで、役者の発する言葉は、まさに厳しい修練の果てに演奏される音楽を聴くようでした。
我々はこんなにも美しくて格調高い日本語という言語をもっているのかと思うと、あらためて唸らされもするし、それを惜しげもなく捨てていく今の世の風潮がこの上なくもったいなくて、うらめしいようでした。
現在の日本人は日本語というとてつもない言語文化の半分はおろか、1割も使っていないような気がしますし、これほど自分達の言語・母国語を大切にしない国民は愚かだと痛烈に思わせられました。
三島由紀夫が鏡花にご執心だったのは有名ですが、とりわけ戯曲作品においてはかなり強い影響を受けていることがわかります。
言葉のもつそれ自体の意味はもちろんこと、その巧緻で意表をつく組み合わせによって、思いもよらない独特な調子を帯びながら極彩色の輝きを放つことを、彼らはその天才によって知り尽くしているのでしょう。
絢爛たる台詞がとめどもなく流れだし、そして音楽同様にあちこちへと転調するようでもあり、まったく感嘆するほかありません。
詩的で装飾的でもある言葉の奢侈は、音楽はもちろん、絵のようでもあり、闇夜にきらめく美しい織物のようでもあり、あっという間の2時間でした。
今回の天守物語は昨年、新国立劇場で上演されたものですが、主演の富姫は現代劇の女形である篠井英介氏が務めましたが、よく頑張ったと思います。
こういう作品ではなによりも言葉を明瞭に、メリハリを持って伝えることが肝心で、その点は出演の皆さんは自分の演技や主張に溺れることなく、作品への畏敬の念があらわれていて好ましかったと思います。
天守物語の舞台は姫路城の天守閣、まさに妖艶な魔物の棲む独特の世界であるために、主演をあえて女形が務めるのは、鏡花の一種異様な世界を現し、中心に据える重しの意味でも望ましいことだと思います。
この作品では板東玉三郎丈の富姫が有名で、舞台はもちろんのこと、自ら監督・主演して映画まで制作しているのですから、現代では玉三郎の富姫というものがこの役のひとつの基準になっているのかもしれません。
このような格調高い豪奢な日本語の世界があるということを、日本人はもっと知るべきだと思いますが、そうはいっても触れる機会がないのだから難しいところです。
とりわけ戯曲は本を読むのも結構ですが、やはり舞台があって、優れた役者の口から活き活きと語られたときにその真価を発揮するものです。