人にはそれぞれに「波長」というものがあります。
科学的には2つの山や谷の間にある波動の水平距離のことだそうですが、普通に言うと互いの気持ちや感覚や価値観などの意志の通じ合い具合のことでしょう。
この波長が合わない者同士というのは、ある意味で悲劇です。
これはむろんあらゆる人間関係において言えることですが、ある意味でこの波長ほど大事なものはないと思われます。
波長の相性が悪ければ、お互いに相手のことを大切な相手で好意的に接しよう、前向きに捉えようとどれだけ努力してみても、何かとギクシャクしてつまらない齟齬やつまづきが次々に発生します。
単純にいうと、笑いのツボひとつもこの波長によって決まってくるのです。
波長が合い、価値観や感性が共有できていると、ちょっとした会話でも、実にスムーズで無駄がありませんし、実際に語った言葉以上にさまざまなニュアンスまで伝えることができるでしょう。
その逆に、波長の合わない人とは、概ねの内容は同意できるようなことでも、会話のいちいち、言葉のひとつひとつに快適感がなく、無駄にストレスが発生し、虚しい疲労ばかりが堆積してゆくようです。
スッと行けるはずのものが、必ずどこか引っかかったり、左右に振れたりして、まるで素直に転がっていかないスーパーの半分壊れたカートのようで、どんなに真っ直ぐに押していこうとしても、変なクセがあってどちらかに曲がろうとしたり、キャスターのひとつが動きが悪かったりするようなものです。
波長が合う人同士というのは、お互いに相手の出方がある程度予測できるのが安心なのですが、逆の場合は常に球はどっちを向いて飛んでくるかまるきりわからず、気の休まるときがありません。
困るのは、お互いが真面目にやりとりをしている場合です。
真面目だからこそ逃げ場がないし、そこには好意も読み取れるからそう邪険にもできない。
そうなるといよいよ気分的にも追い込まれてしまいます。
マロニエ君はこういう場合の有為な解説策を知りませんし、それはきっとないのだと思います。
そういう方とは甚だ残念ではあっても、ビジネス以外のお付き合いは極力避けるようにしないと、結局はろくなことはないだろうと思います。
持って生まれた性格、家庭環境、育った地域、時代などさまざまな要因があるでしょう。
「いい人なんだけど…」という言葉がありますが、この言葉が出始めると、要は合わないという意味です。
人間の快適なお付き合いには、善意と人柄だけではどうにも解決のつかない深いものがあるようです。
マロニエ君としてはその深い部分を文化性だと呼びたいのです…。
なぜならそれは機微の領域であり、いいかえるなら絶妙さの世界だからです。
それを司るのは繊細な感受性とセンスであって、人はそこのところを解さない限り文化の香りを嗅ぐことはできないと思うわけです。