友人からのメールに『人間関係は面倒くさい』とありましたが、まったく同感です。
常識や良識も時代と共にどんどんおかしな方向に変化しており、近年はほとんどついていけない新種の基準が次々に打ち立てられるようです。
それよりも甚だしいことは既存の常識や礼節が信じがたいペースで暴落している点でしょうか。
例えば、誠実に接すれば相手の心には必ずなにかが通じるというのは、確実にひと時代前の理想化された常識であって、現代ではもはや幻想となりつつあるようです。
どんなに誠実を尽くして接しているつもりでも、それを一向に解さず、専ら無反応で、そのボールをキャッチできない人があまりにも増えすぎている印象があります。
昔に比べると、人の反応というものがまったく違っており、まずおしなべて情の濃度が低いようです。
共通しているのは、とくだんの悪気などはないらしいという点ですが、これが却って困りものです。
以前なら変人というか、ちょっと変わり者に分類されたような人が、だんだん増殖し、群れをなしていつの間にか新しい基軸を作っているのは間違いなく、田中角栄の「数は力」じゃないけれど、けっきょく多数派が主導権を握ってしまい、果てはこちらが異端扱いされるようで頭がクラクラしてきます。
この新手の人達は精神構造そのものが著しく自分本位にできているので、何事においても相手のことを考えたり、自然な人情で発意発想するということが、悪気ではなく能力的にできないようです。
そして情義において非常に消極的であり、実際ほとんど不感症であるといえるでしょう。
自分本位とは自己中ということですが、自己中というと、普通はわがまま放題で身勝手な、強欲な意志の持ち主のようにイメージしますが、このタイプは必ずしもそうだとは言い切れません。本人には何も悪意はないのに、考えついたことや折々の判断など、発想そのものが見事に自己中でしかあり得ないわけです。
そのために自覚も罪の意識もないし、むしろ自分は常識に則って正しいことを普通にしているつもりらしいのですから、どうにも始末に負えません。
こういう救いがたい思考回路を脳内にもっているため、人との自然でしなやかな交流が苦手で、なにをやってもあまり上手く行かない。悪気はないのに、行く先々で小さなクラッシュを起こして孤独に追い込まれるようで、見方によっては非常に気の毒にも見えるのですが、現実にはそう冷静なことも言っていられないほど、こういう人達と関わると様々な被害を被ることにもなるのです。
犬養毅が五・一五事件の際に「話せばわかる」と言ったのは有名ですが、それは幻であって、話してもわからない人は少なくないし、この人達は強いです。
自分は正しいと思い込んでいる人ほど、実際は最も無知で鈍感です。
というか、ある意味において、無知や無自覚、鈍感ほど強いものはありません。
知らないし、感じないのだから、なにごとも平然と自分のペースを押していけるし、それで気が咎めることもコンプレックスに苛まれることもないのですから、これぞ最強!というものです。
有り体に言ってしまえば「話してもわからない」のが人であって、現に、犬養毅もその言葉は聞き入れられずに殺害されました。
話せばわかる人のほうが圧倒的に少数派ですから、ごくたまにそういう人を発見すると小躍りしたくなるほど嬉しくなるマロニエ君ですが、そんなことはめったにあることではなく、平生心の内は重装備で鎧を着ていないととんだ目に遭わされかねない時代になりました。
こういう話が通じる相手との合い言葉は『油断大敵』です。