豪華絢爛は大衆向け

ある本を読んでいると興味深いことが書かれていました。

いささか下世話な話ですが、ホテルや料亭などには自ずと格というものがあるのはよく知られている通りで、今どきはミシュランガイドの影響によるものか、なにかといえば星の数などがその尺度のようになっています。
しかし、それらは出版社などの、所詮は給料取りの誰かがチェックをして等級を付けたものであって、マロニエ君はこんなくだらない、かつ信頼に足らないものはないと以前から思っていました。

ホテルなども高い評価を得るためには、いろいろな評価基準をふまえて、予めそれに合わせてクリアできるように作っていくだけで、本当の格式とは思えません。

中には一泊いくらというようなスイートの存在などを披瀝して、それがさも高級であるかのようにアピールしますが、なんとばかばかしいことかと思います。もちろんそんな部屋に泊まりたい人がいて、支払い能力があるのなら泊まればいいでしょうが、それが即高級と思うこと自体が価値観の貧しさの表れのような気がします。
そもそも昔から、必要以上に一流ホテルに拘ったり、スイートルームなどに異常に憧れるのは決まって成り上がりだと言われています。
その人の根底に高級というものの本来の尺度が存在しないので、高額であることにのみ頼るのでしょう。

本に書いてあったのは、高級というものにはそこに息づく精神的な価値の領域があり、また昔からの利用者が自然にそれを受け止めて、誰ともなく認識していることが大切で、決して派手で豪華な作りではないということです。
そして、ホテルであれレストランや料亭であれ、大衆を相手にする店ほど見た目を豪華絢爛に仕立て上げて、もっぱら表面的な作りになっているという事実。本物は表面的な誇示や演出などする必要がないし、高級の中身とは目に見えるものばかりではないので、本物はむしろ地味でそっけないものであるということでした。

今どきの高級ホテルなどは、数十年前の高級ホテルとは違って新しいものが出来るたびにこれでもかという豪華で壮麗なドバイみたいな作りになります。しかし、それがまたいよいよウソっぽいわけです。
料亭然りで、昔のそれは外から見るとなんということもない至って簡素なもので、知らない人は大抵見過ごしてしまうようなひっそりしたものでしたが、今はやはり誰の目にもわかる壮麗で明快な豪華さを表面に出してきます。

例えば、本物の料亭とは間口が狭く奥行きがあり、作りは地味で、中も広くはないが、そこに流れる空気が違うし、お客も店側も要は出入りする人間が違うということです。そして本物の尺度というものは甚だ曖昧で、チェック項目のようにして文字の上に表せるような類のものではないということでしょう。

そして本を見て覚えて行くようなものではなく、生い立ちの中でごく自然に身に付いた者だけが行くものであったはずです。
一流というものの概念には、究極的には一朝一夕には得られない経験と精神性がかかわるわけで、そのためには伝統の裏付けなしに真の高級というものは存在しません。そこでは物質的には逆に簡素であることがむしろ必要だったりもすると思われます。
しかしそういうものとは無縁の大衆感情に訴えるには、物理的、視覚的、金額的なもので表現するしかなく、そこで伝統なんて言ってみてもとても間に合うものではありません。

今はあからさまな競争社会ですから、もっぱらビジネスで成功したような人ばかりが社会の上位に位置することになり、かくして本物は次々に静かに姿を消していくのでしょう。

ふと、ピアノの音も最近のものは奥行きのないブリリアントな方向で、なるほどそんな風潮と経過を辿っているようにも感じてしまいました。

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