安城家の舞踏会

山田洋次が選ぶシリーズで『安城家の舞踏会』というのを観てしまいました。
原節子、森雅之、滝沢修などが出演する、終戦後の没落貴族の黄昏れの様子を描いた映画で、当時はそれなりの話題作だったようです。

戦後に平和憲法が発布され、民主主義の名の下にそれまでとは打って変わった平等の世の中が打ち立てられ、それを前にした貴族の悲哀。収入も途絶え、住み慣れた広大な家屋敷を維持することもできない一家は、それぞれの捉え方によって新しい時代といかに折り合いをつけていくかという現実に直面しながら、最後の舞踏会を催します。

その招待客の中には、ヤミ会社の社長で、屋敷を抵当に金を貸している男も含まれていますが、舞踏会の裏で安城家の当主は屋敷を手放すことが耐えられずに哀願を続けますが、この社長はこの屋敷はもはや自分のものだと言って相手にもなりません。

この男は昔、安城家に世話になった過去もあり、その点でも当主は翻意を必死に訴えるのですが、旧秩序の崩壊と時代の流れで世の中の価値は一変し、そのような過去などなんのその、まったく相手にされません。

また、長年この家の運転手として仕えていた男が裸一貫から商売をはじめて財を成し、昔の主家を買い取ろうとするなど、見方によってはこの終戦の時期というのは戦国時代以上の下克上ともいえるようです。
こういう混乱をかいくぐった末に今日のような時代が到来したのだということが偲ばれました。

そんな中、無気力に生きる安城家長男役の森雅之はいつもだらしなくタバコをくわえ、何事にも無気力、厭世的になり、暇さえあればピアノを弾いていました。

ショパンのエチュードやプレリュードを形ばかり弾いていましたが、密かに遊ばれている女中が、長男の冷淡さに業を煮やして、人目がないのをいいことに、いきなり演奏中のピアノの鍵盤に飛び乗ってお尻をのせつつ気を惹こうとするシーンなどは、当時としてはよほど大胆な演出だったのだろうと思いますが、今の目で見るとあまりにも滑稽で笑ってしまいました。

古い映画というのは、その時代を偲ぶ手がかりにもなって面白いものですね。

いつの時代も、時代が変わることによって、それまで当たり前だとされていた事柄が、そうではなくなるというのは、良いことも多いのかもしれませんが、同時に様々なかたちで計り知れない悲劇も生み出すものだと思いました。

この映画は終戦後わずか2年の、1947年の9月に封切られており、当時は貴族といわず、このような現実がごろごろしていたものと思われます。
世の中がひっくり返るというのは、何にしても大変なことですね。

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