自分で評価

過日書いたCD「長尾洋史 リスト&レーガーを弾く」のライナーノートには、ピアニスト・コレぺティートア・作曲家である三ツ石潤司氏が文章を寄せているのですが、そこに書かれたものはなにも特別な事ではないけれども、大いに同意できるものでした。

とりわけ現代は音楽家の演奏もしくは音楽そのものをどれだけ評価しているかという問題提起には、強く共感させられました。
曰く、コンクールの入賞歴、著名な教育機関での成績、ハンディキャップの克服など、音楽外のことに囚われているというわけで、「どうして──略──自分自身が音楽に本当に耳を傾けて、自分自身で芸術家の音楽を評価しようとしないのだろう。」とあり、これにはまったく同感です。

いやしくも音楽好きであるならば、音楽や演奏は、予備知識よりもまずは自分の耳で聴いて、そこに自分なりの評価や好みを与えるのが至極真っ当な在り方だと思われます。

たしかにプロのコンサートやCD販売はビジネスですから、どんなに優れた演奏をする人であっても、なるほど少しは有名でなんらかの魅力がなければ始まらないでしょう。
だからといって、演奏の質よりとにかく有名度のほうがはるかに重要視されている現状には、さすがに呆れかえってしまいます。有名ということは、そんなにもすべてに優先するほど大事なことなのか!と。
尤もこれは音楽に限ったことではありませんが。

もちろん少しは存在が知られなくては、普通の人が演奏を聴くチャンスもないというものですが、有名になるきっかけそのものが、その人の本業ではない要素に根ざしていたりするのはどうしようもない虚しさを感じてしまうもの。せめてステージに立ったりCDを出すようになれば、そこから先は演奏内容によって評価が下されるべきだと思いますが、現実はかなり違った要素で事は進行しているようです。

どんなに質の高い見事な演奏をしても、最終的にそれを認められるという拠り所がなくては演奏する側にしても精進のし甲斐がないわけで、結局はそれが演奏の質、あるいはコンサートの質を高めることにも直結することだと信じたいところです。

しかしながら、現実にはコンクール歴や容姿を元手にして、いかに巧みなコマーシャリズムに乗るかということが成功の鍵を握っているようで、聴衆が自分の耳で聴いて判断するという最も本来的なことが、あまりにも失われているように思われます。
芸術の世界こそ真の実力主義であるべきところを、それほどとも思われないような一部の顔ぶればかりが、あいもかわらず少ない市場を牛耳っているのはどうにも納得がいきません。

そんなことを思っていたら、お次はやたら世間ズレしたジュニアが出てきて、目下たいへんな勢いで売り出し中のようです。すでになにもかも心得たような笑顔、いかにも今風な計算された口調や振る舞いには、演奏家のタレント化もついにここまできたのかと思わずゾッとしてしまいました。

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