はじめはかなり違和感を感じたH.J.リムですが、繰り返し聴いているうちに、こちらの受け止め方もあるときから急旋回して、これはやっぱり面白いピアニストだと気付くようになりました。
逆に言うと、違和感を感じながらも何度も聞かせるだけのオーラがこの演奏にはあったということでもあると思われます。
その演奏の第一の特徴は、とにもかくにも灼けつくような生命感にあふれていることですが、同時に驚くべきはその例外的な集中力の高さだと感じました。この点は天賦のものがあるのは明らかで、およそ勉学や努力で成し遂げられる種類のものではなく、彼女が持って生まれたものでしょう。
ひとたび曲が始まると、どの曲に於いても彼女の並外れた感性が留まることなく動き回り、まさに曲それ自体が生き物であることをまざまざと思い知らされます。
そして一瞬もひるむことなく、終わりをめがけて一気呵成に前進していく様は圧巻で、聴く者は彼女の音楽の流れの中で彼女が辿っていく喜怒哀楽を味わい、共に呼吸をさせられます。
音楽作品というものが、そこに生まれ立ってから終結するまでを、これほど直截的に克明に描き出す演奏家はなかなかお目に掛かったことがありません。
唯一の存在といえば、あのアルゲリッチでしょう。
「どう聴いてもこれが純正なベートーヴェンには聞こえない」と初めのうち思ったのも偽らざるところでしたが、にもかかわらず、何度も繰り返し聴くうちに、しだいに彼女が感じて表したい世界がわかってくるのは非常に面白い、ぞくぞくするような体験でした。
ひとつ言えることは、H.J.リムというピアニストは間違いなく、ただの演奏家ではなく独立したひとりのまぎれもない芸術家だということです。
はじめ違和感のほうが先行してしまったのは、ひとえにマロニエ君の能力不足だと恥じるところですが、やはり天才というものは初めから確固とした個性の導きによって高い完成度に達しているために、恐れを知らず、既存のものと適当に折れ合いながら徐々に自己表出していくといった、いうなれば処世術を知らないというわけでしょう。
それがまた、さまざまな反発や抵抗感を招くのかもしれません。
ひじょうにフレッシュで生々しい楽想にあふれている点が、何度も演奏されてきた使い込んだ鋳型のような解釈にきれいに収まっている演奏とは異なり、新しく独自に生まれたものは当然そんなものとはは無関係で、そういう馴染みの無さが耳をも拒絶してしまったとも言えるような気がします。
そんな決まりきった慣習から耳が解放されてくると、もう何が真実かなんてわからなくなり、むしろベートーヴェンの頭の中にはじめに浮かんだ楽想とは、むしろこういうものではなかったのか?…という疑念すら湧いてくる始末です。