音楽評論の大御所にして最長老であった吉田秀和さんが亡くなられたそうです。
御歳98だったとのこと、まさに天寿を全うされたわけでしょう。
最後まで現役を貫かれたことは驚くべきで、レコード芸術の評論をはじめ、氏の文章には長きにわたってどれだけ触れてきたか自分でも見当がつきません。
テレビにも折に触れて出演されましたが、老境に入ってからドイツ人の奥さんが亡くなったときは生きる希望を失い、自殺も考えたというほどの衝撃だったというようなことも語られていたのが今も印象に残っています。
それでもやがてお仕事に復帰され、執筆活動はもとよりNHKラジオの番組(題名は忘れました)は40年以上にも渡って継続して番組作りから司会までこなされるなど、その深い教養と尽きぬエネルギーにはただただ敬服していたものです。
また東京芸大と並び立つ、日本屈指の音大である桐朋学園は、この吉田さんや斎藤秀雄さんの尽力によって「子供のための音楽教室」としてスタートし、吉田さんはここの初代室長を務められるなど、いわば桐朋の生みの親でもあるといえるでしょう。
ここから小沢征爾、中村紘子など後の日本の主だった音楽家が数多く巣立っていったのは有名な話です。
私事で恐縮ですが、マロニエ君が子供の時、この桐朋の「子供のための音楽教室」の福岡での分校のようなところで音楽の勉強の真似事のようなことができたのはとても懐かしい思い出です。
吉田さんが日本の音楽界に与えた功績はとても簡単には言い表すことのできない規模のもので、優秀なオーケストラとして名高い水戸室内管弦楽団を結成したり、音楽を超えたジャンルにまで及ぶ吉田秀和賞の創設など、言い出すと知らないことまで含めてとてつもないものだろうと思います。
しかし、マロニエ君が最も吉田さんの仕事として尊敬尊重していたのは、やはり音楽評論という氏の本業の部分であって、その人柄そのもののような穏やかで格調高い文章、音楽評論という場において日本語の美しさをも同時に紡いで表現されたその文体は、気品に満ちた独特の吉田節のようなものがあり、これは誰にも真似のできないものだったと思います。
吉田秀和といえばあまりにも有名なのが、初来日したホロヴィッツの演奏を聴いて、その休憩時間にテレビインタビューに応じられた際のコメントでした。覚えているのは「彼はもはや骨董品になったな。骨董品は価値のある人には価値があるが、ない人にはもうない。ただしその骨董品にもヒビが入った。もう少し早く聴きたかったな。」というものでした。
まったくの記憶だけで書いているので、多少違っているかもしれませんが、ほぼこのようなコメントだったことを覚えています。
この寸評はたちまち世に喧伝され、ついにはこの神にも等しい世紀の大ピアニストに対していささか不敬ではないか?という論調まであらわれたのを覚えています。しかし、マロニエ君は頑として吉田さんの意見に賛成でしたし、彼はまったく正しいことを言ったのだと思い続けたものでした。
この時のホロヴィッツはそのカリスマ性、伝説的存在、魔性、突然の来日、当時(1983年)5万円也のチケット代など、なにもかもが話題沸騰という状況で、そんな中をついにこの圧倒的巨匠がNHKホールのステージに姿をあらわしました。プログラムにもそれまで彼のレパートリーにはなかったシューマンの謝肉祭があるなど、テレビの前に陣取るこちらも高ぶる期待に胸を躍らせながら、その画面を固唾を呑んで見つめたものです。
しかし、その演奏は呆気にとられるような無惨なもので、この状況にあっては吉田さんのコメントはきわめて妥当で誠実、むしろ知的な抑制さえ利かせたものだったと思いますし、むしろ不自然なほど素晴らしい!と褒めちぎる日本人ピアニストなどの発言のほうがよほど偽善的で、そんなことを平然と言ってのける人の神経のほうを疑ったものです。
今は音楽批評とはいってもいろんな制約に縛られており、おまけに半ばビジネス絡みでやっているようなものですから、大半の批評はマロニエ君はもはや信頼していません。そして最後の良心の象徴であった吉田さんが亡くなられたことで、ますますこの流れに歯止めがかからなるような気がします。
いずれにしろ吉田さんの著作や生き様はいろいろと勉強になった上にずいぶん楽しませてもいただいたわけで、ご冥福をお祈りすると共に謹んで御礼を申し上げたい気分です。