『サド侯爵夫人』は『鹿鳴館』などと並んで、三島由起夫の戯曲の最高傑作に数えられる作品で、深い交流のあった澁澤龍彦の『サド侯爵の生涯』に着想を得て書かれたものであることは良く知られています。
初演以来、世界的にも高い評価を得て何度も上演を重ねていますが、今年4月に世田谷パブリックシアターで上演された舞台の様子がBSプレミアムで放映されました。
この作品には、サド侯爵夫人のルネ、その母モントルイユ夫人をはじめ、わずか6人の女性しか登場せず、当のサド侯爵はいわば影の主役であって舞台上に登場することはありません。
驚いたことには、演出は狂言師の野村萬斎によるもので、能や狂言の手法を取り入れたものということで「言葉による緊縛」などと銘打った公演だったようですが、率直に言って未消化の部分も多く、装置や衣装も同意できない点が多々ありました。
主役の蒼井優は膨大な台詞をよく頑張りましたが、この役に対していささか軽量という印象を免れませんでしたし、奔放で悪徳の擁護者であるサン・フォン伯爵夫人を演じる麻美れいはいささか力みすぎで、役のキャラクターに対して表現過多かつ台詞まわしの雑なところが目立ちました。
しかし、もっとも驚いたのは白石加代子扮するモントルイユ夫人で、しつこいばかりの、もののけのような演技の連続で、あまりにも品位に欠けるという他はありませんでした。表情はいつも大げさに目を剥き、声は始終だみ声を張り上げては不可解なアクセントがつき、中でも驚いたのは、ほとんど台本に書かれた日本語の意味とは無関係にしばしば句読点を打ったり勝手気ままにブレスをしている点でした。
「言葉による緊縛」はこの人には適用されなかったようです。
白石加代子は役柄によっては存在感を示せる強さのある役者なのかもしれませんが、およそ三島作品、わけてもサドのようにパリが舞台の貴族社会が舞台ともなると、まるで場違いな異質な感じが際立って、この芝居の大きな柱のひとつとも云うべき重要な役を江戸時代の怪談語りのように変えてしまい、三島の芸術世界や、作品の本質をまったく見誤っているとしか云いようがありません。
三島の戯曲は、その格調高い絢爛とした日本語の美しさを、言葉の調べのように再現するためにも、役者は複雑な台詞を音楽的かつ明晰にしゃべらねばなりません。同時に並外れた洗練も必要で、その考え抜かれた豪奢な文体に過剰な緩急をつけたり、新劇風の感情表現を加え過ぎたり、恣意的な表現があるとたちまち作品の持つ密度感が損なわれます。
おそらく三島が観たなら、決して満足できない舞台だったに違いないと思いました。
それでも、今どきはたえて聞かなくなった美しい日本語の洪水に耳を傾けるのは抗しがたく、とうとう3時間半を超すこの言葉の劇を明け方まで見てしまいました。
昔は感銘を受けた作品ですが、今にして感じることは、いささか長すぎるのではないかという点で、あまりにも装飾的な台詞が延々と続き、さすがに緊張感が途切れるところがあり、ヴァーグナーの影響でも受けたのでは?などとふと思ってしまいました。