小冊子「ピアノの本」をパラパラやっていると、イタリア人ピアニストにして徳島文理大学音楽学部長であるジュゼッペ・マリオッティ氏のインタビューが掲載されていました。
氏は自身がベーゼンドルファー・アーティストでもあるため、主にこのピアノを中心とした話になっていましたが、曰く、ピアニストにとって「音をつくる」ことは容易なことではないし、学習者でも音をつくるところから始めなければならないと述べています。
ヴァイオリンやフルートなどの楽器では、はじめから音をつくることと同時に練習を進めて行くのに対して、「ピアノは正しい音程のきれいな音が簡単に出るので、音をつくることへの意識が希薄になる」とおっしゃっていますが、これはいまさらのように御意!だと思わせられました。
マリオッティ氏の友人のドイツ人ピアニストは生徒に「音を望みなさい」としばしば言うそうです。
音を望むということは、マロニエ君の解釈では実際の楽器が発音するよりも前に、どのような音を出すかをイメージして極力それに近づくように気持ちを入れて演奏するということだと思いますし、この手順を身につけるということは、そのままどのような演奏をするかというイメージにも繋がるような気がします。
しかし、これは意外と日本人には苦手なことのようで、プロのピアニストはひとまず別としても、アマチュアの演奏に数多く接してみると、ほとんどの人が音色のイメージというものをまったく持たないまま、ピアノの音はキーを押せば出るものとして油断しきっており、そういうことよりも、ひたすら難曲に挑戦しては運動的に弾くことにばかりにエネルギーを注ぎ込んでいるようです。
そこには音色どころか、解釈も曲調も二の次で、とにかく最後まで無事に弾き通すことだけが全目的のように必死に指を動かしているように見受けられます。
マリオッティ氏の言葉にもずいぶん思い当たることがあり、「日本人は体を硬くして、ピアノの鍵盤を叩くように弾く傾向があるので、肩や腕、手首、指の緊張を解いてリラックスして弾けるようになるといい…」とのことです。
日本人がある独特な弾き方をするのは、ひとつには日本のピアノにも原因があるのかもしれないと思わなくもありません。日本のピアノは間違いなく良くできた楽器だと思いますが、強いて言うなら音色の微妙な感じ分けやタッチコントロールの妙技をあまり要求せず、誰が弾いてもそこそこに演奏できるようになっています。
これはこれで我々のような下手くそにはありがたいことではありますが、やはり楽器である以上、そこには音色に対する審美眼とか演奏表現に対する敏感さや厳しさがあるほうが、より素晴らしい演奏を育むことにもなると思います。
人間の能力というものは、必要を感じないことには、無惨なほど無頓着となり、ついには開発されないままに終わってしまいますから、汚いタッチをしたら汚い音が出てしまうピアノに接することで、より美しい音をつくる必要を身をもって体験するのかもしれません。
驚いたことに徳島文理大学には大小合わせて9台ものベーゼンドルファーがあるのだそうで、このようなタッチに対して非常にデリケートかつ厳格な楽器に触れながら勉強できることは、将来的にも大いに役立つ貴重な修行になるだろうと思われてちょっと驚いてしまいました。
家庭での親のしつけと同じで、成長期に叩き込まれたものは、その人の深いところに根を下ろして一生をついて廻るものだけに、こうした体験の出来る学生は幸せですね。