こんなくだらないブログでも読んでくださる方がいらっしゃることは、ありがたいような申し訳ないような気分です。先ごろは北海道の方から、ヴァレンティーナ・リシッツァというピアニストをどう思いますか?というメールをいただきました。
>私の素人耳には、型に囚われない自由な音を出すピアニストに聴こえるのです。
>ところが、日本のメディアには完全に無視されている人です。
>この人には目ぼしいコンクール歴がありません。
というような事が書かれています。(引用のお断り済み)
リシッツァというピアニストはマロニエ君もYouTubeで見た覚えのあるピアニストだったので、名前を見たときにあの女性ではないか?と思ったのですが、あらためて動画を見てみるとやはりそうでした。
長いストレートの金髪を腰のあたりまで垂らしながら、ものすごい技巧で難曲をものともせず演奏しているその姿は、どこかジャクリーヌ・デュ・プレを思い出させられますが、調べるとウクライナはキエフの出身で現在42歳とのことです。
その指さばきの見事なことは驚くばかりで、とくにラフマニノフやショスタコーヴィチなどの大曲難曲で本領を発揮するピアニストのようです。そして、このメールの方がおっしゃるように、実力からすれば応分の評価を得られているようにも思えません。
このメールが契機となって、マロニエ君も動画サイトでいくつかの演奏に触れましたが、その限りの印象でいうならリシッツァの魅力はコンクール歴がないという経歴が示す通り、こうあらねばならないという時流や制約からほとんど遮断されたところに存在しているように思います。自然児が自分の感性の命じるままに反応しているようで、彼女の飾らぬ心に触れるような演奏だと感じました。
それでは、よほど自己流の破天荒な演奏をしているみたいですが、そんなことは決してなく、きちんとした音楽の法則や様式を踏まえた上で、あくまでも自分に正直な自然な演奏をしているのだと思います。
今どきのありふれたピアニストと違うのは、既存のアカデミックな解釈やアーティキレーションに盲従することなく、あくまでも自分が作品に対して抱いたインスピレーションによって演奏し、音楽を発生させているということだろうと思います。これは本来、音楽家としてはむしろ自然の法則に適ってようにも思うのですが、世の中がコンクール至上主義になってしまってからというもの、訓練の過程で「点の取れる演奏」を徹底的に身につけさせるという傾向があり、その結果若い演奏家の中から面白い個性が出てこなくなってきたことで、逆にこういう人が珍しい存在のようになってしまっているのかもしれません。
事実コンクールでは自分の色や表現を出し過ぎたために敗退することも多いのだそうで、その結果、教師も生徒も個人の個性や主観という、本来芸術の中核を成す部分に重きを置かず、ひたすら審査員に受け容れられる演奏を身につけるために奮励努力するのですから、その結果は推して知るべしです。
その点ではリシッツァという女性は、自分の作り出す演奏だけを元手に果敢に勝負をかけているピアニストのようで、それに値する才能も度胸も自我もあって実にあっぱれな生き方だと思います。そういう意味では単なるピアニストというよりはクリエイティブな芸術家のひとりだと云うべきかもしれません。
日本で評価されないのは、知名度が低く、いわゆるタレント性がないこと、そしてコンクール歴というわかりやすい肩書きを持たない故だろうと思います。さらにいうなら彼女の得意のレパートリーには重厚長大な難曲が多く、そこも日本人にはやや向いていないのかもしれません。
他国のことは知りませんが、少なくとも日本の聴衆ほど発信された情報のいいなりになるのも珍しく、マスコミの注目を集め、チケットをさばき、CDを買わせるには、コマーシャリズムと手を結ぶしかないのでしょう。
評判に靡かず、頑として自分の耳だけを信じるという人は専門家もしくはよほどのマニアということになり、これはほとんど絶滅危惧種みたいなものです。
リシッツァには、どこかそういう不遇を背負ったアーティストの悲哀のようなものがあり、そこがまた彼女の支持者には堪らないところかもしれません。