翻訳の文章

いま、あるピアノの技術系の本を読んでいます。
買ってすぐに通読して、現在はもう一度確かな理解を得たいと思い、少しずつ再読しているところです。

技術的なことを書かれたいわば専門書で、あえて書名は書きませんが、おかしなことに、この本を読むと催眠術にかかるように眠くなるのです。もっとありのままに云うと、必ずといっていいほど強い睡魔に襲われてしまい、まとまった量を読み通すことがなかなかできません。
実は最初に読んだ時も同様だったのですが、なにしろ内容が専門的なところへこちらはシロウトときているために、他の本ようにスイスイ読み進むというわけにはいかないのだろう…とそのときは単純に思っていました。

でも不思議なのは、内容が理解できないとか面白くないのであれば眠くはなるのもわかりますが、内容はマロニエ君自身も強い関心を持つもので、そこに書かれている内容はむしろ積極的な興味をそそられる面白い内容なのです。

そのうちに、その睡魔の元凶がなへんにあるかついにわかりました。
この本は海外の技術者が書いたもので、それを日本人の同業技術者が翻訳して国内の出版社から発売されたものなのですが、原因はどうやらその文章にあるようです。

翻訳者は、外国語は堪能なのかもしれませんが、あくまで技術者であって少なくとも翻訳の専門家ではないはずです。
外国語ができればその意味を理解することはできるかもしれませんが、それを右から左に日本語に正しく訳しても、なんの面白味もない、味わいのない、どこかおかしな日本語になるだけです。
したがって多くの文学作品などの翻訳を手がける際は、その原文理解はもちろんですが、人並み以上の日本語の能力と文学性、さらには深い教養が必須条件となるのは云うまでもありません。

要は最終的な読者に違和感なく、心地よく、快適に文章を読ませるためには、日本語固有の文章構成、すなわち日本語による思考回路にまで配慮が及んで表現されるよう、述べられた意味と言語特性を一体のものとして奥深いところで取り扱わなくてはいけないのだろうと思います。

ところが、そういうことに重きを置かない人は、書かれた原文の文法および内容の正確な和訳ということが主眼になってしまうのか、読者の心地よさや、述べられた意味やニュアンスを日本語の文章として捉えやすい表現に昇華するという思慮に欠けているのではないかと思います。

言葉や文章というものは、言うなれば各言語固有の律動と抑揚をもっており、そのうねりに乗って語られないことには、読む側はなかなかテンポ良く読み進むことができません。この本の文章は、そういう意味で原文記述には忠実なのかもしれませんが、相互の文章間にしなやかな日本語としての流れと脈絡が欠けているので、数行読むのにもひどく神経が疲れます。

この本が翻訳の専門家の手に委ねられなかった理由はマロニエ君の知るところではありませんが、ピアノ技術者のための専門書であるがために、発行部数もごく限られており、同業の日本人が奮起して訳することになったのではないかと思います。技術者らしい非常に丁寧な仕事ぶりだということは読んでいて伝わってきますが、それだけになおさら残念に思うわけです。
諸事情あったのだろうとは思ってみるものの、価格もかなり高額であった点から云っても、やはりそこには不満が残りました。

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