世の中はすっかりネット社会で、もはやそれなしには何事も立ち行かなくなってしまいました。
テクノロジーの進歩は、それを使う側のあり方が常にこの分野の尽きない副主題であり、優秀で便利な革新技術が生まれれば、それだけ倫理性や節度というものが問題となるは当然ですが、これが難題です。
とりわけネットの普及には、世の中の在り方自体をひっくり返してしまうほどの力があり、今やほとんどすべての物事がネット主導で動いており、現実社会は、それを追認し具体化するだけの場所になり果てているように感じることもままあります。
昔は(といってもたかだかマロニエ君が知っている昔ですが)、何をするにも今にくらべると何かと手間暇がかかり、不便といえば不便でしたが、それは現在の便利を知ってしまった結果そう思うだけで、当時はそれを不便だなどと感じることはほとんどありませんでした。
振り返ればそこにはいいこともたくさんあり、その手間暇の中には、今から思うととても人間的な情緒的な温かみや味わいがあって、昨今、加速度的に失われていく多くの人間臭いものが、ごく自然な手続きとして含有されていたように思います。
もはや生の人間関係すらどことなくネットの延長上にあるようで、直接会っている人との感触においても、ネットのルールや発想から完全には逃れることはできず、そこになにかしら縛られている気配を感じてしまうこともしばしばです。
すくなくともネット上での慣習、パソコンの操作感触や体験が、しだいに人の心の深奥にまで侵食してしまい、現実社会でもその流儀が横行してしまっていると感じることが多々あるのは、とても恐ろしいことのように思います。
人との関係も、なんの縁故もない者同士がネットで出会うなど、そのこと自体にも賛否がありますし、その手の出会いは僅かな例外を除いて大抵は関係が希薄で、ささいなことであっさり終わってしまいます。
それで得心がいったこともあり、だから今の人間関係には、いつかそんな瞬間が来るのではという予感と覚悟を多くの人が本能的にしているようで、よけい表面的に関係が良好であるよう振る舞うことにエネルギーを費やし、口にすることも必然的に無害な当たり障りのない安全なことばかりになるのでしょう。
「ケンカをするのは仲が良い証拠」という言葉はもはや死語に等しく、今どきはケンカはおろか、どこか不自然な感じがするほど良い人ばかりなのは、つまりケンカができないからなんですね。むかしは、ケンカは、煎じ詰めれば「もっと仲良くなるためにすること」ぐらいな認識でいられましたが、いまはちょっとでも関係がつまづくと、まずそれで関係は終了です。
つまり失敗が許されない。双方が理解し許し合うだけの許容量も情愛もない。
しかし生身の人間関係で失敗がないなんてことがあるでしょうか? だから誰もが本音は胸の奥深くにしまい込んで神経をすり減らしてでも偽りの善人を装い、それを徹底して貫くために毎日を芝居のように演じているのだと思います。
そしてその芝居が上手くて持続力のある人のことを、現代では「いい人」とか「オトナ」という尊称で呼ぶようです。
不思議なもので、役者が役になりきるように、そんな芝居でもとにかく毎日やっていればそれに慣れもすれば上達もして、しまいには意識まですっかり立派な人物のような気になるのでしょう。
要は、みんな孤独で、恐くて、ピリピリしているだけのことかもしれません。