アミール・カッツ

「俺のショパンを聴け!」
ピアニストのアミール・カッツは、あるインタビューでこのように言ったといいます。
それでは仰せの通り聴かせていただきましょうというわけで、2つリリースされているショパンのCDのうち、より新しい録音であるバラード/即興曲の各4曲を購入しました。

バラード第1番の冒頭部分からして技巧に余裕ある、クオリティの高そうな演奏であることが早くも伺われます。
さらには、ひとつひとつのフレーズから彼の音楽に対する細やかな息づかいが感じられ、ただきれいで正確に弾くだけのピアニストではないことが感じられる同時に、どこにも奇抜なことを仕掛けるなどして聴く者の注意を惹こうとしている軽業師でないのも伝わります。
それでいて、少なくとも、これまでに聴いたことのなかった新しいショパン演奏に出逢った気がしますし、その新しさこそ彼の個性だろうと思います。

しかし、どうももうひとつ乗れないものがある。
曲は確かにショパンだけれども、どうもショパンの繊細巧緻な作品世界に身を浸すのではなく、あくまでもこのカッツというピアニストの手中でコントロールされつくした整然とした音楽としての音しか聞こえてこない。

ポーランドの土着的なショパンでもなければ、パリの洗練を経たショパンでもない、あくまでもこのカッツというピアニストの感性を通じて、既成概念に囚われず、正しくニュートラルに弾かれた、無国籍風の堂々たるピアノ音楽に聞こえてしまうわけです。

非常に注意深く真摯に演奏されていることも認めますが、あまりにも筋力と骨格に恵まれた男性的技巧によって余裕をもって弾かれすぎることで、却ってショパンの細やかな感受性の綾のようなものや、複雑で整理のつけにくい詩情の部分などが力量に呑み込まれてしまった観があり、立派だけれども、聴いていてちっとも刺激されるものがありませんでした。

マロニエ君が思うに、ショパンの作品は芸術作品としてはきわめて完成度は高いけれども、どこかに危うい構造物のような緊迫を孕んでいなくてはいけないと思うわけです。
少なくとも、完全な土台の上に建てられた、強固でびくともしない建築のようなショパンというのは、どうしてもしっくりきません。

云うまでもなく、ショパンをひ弱な、少女趣味のアイドルのように奉る趣味は毛頭ありません。
しかし、誰だったか失念しましたが、ショパンのことを『最も華麗な病人』と評したように、ショパンには適度な不健康と煌めくブリリアンスの交錯が不可欠で、過剰な頑健さとか野性味、すなわちマッチョであることはマイナス要因にしかならない気がするわけです。

カッツのショパンは、力強さと構成感が勝ちすぎることで、却ってショパンの世界を小さくつまらないものにしてしまった気がします。
しかし、こういうある意味ではスケールの大きい、荷物の少ない寡黙な男のひとり旅みたいな演奏をショパンに求めている向きもあると思いますので、そこはあくまで好みの問題だと思います。

全体にバラードのほうがよく、それはピアニスティックに弾ければなんとかなる面が即興曲より強いからでしょう。

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