昨年6月にパリのサル・プレイエルでおこなわれたパリ管弦楽団演奏会の様子が放送されました。
指揮は日本人の若手で注目を集める(らしい)山田和樹で、曲はルスランとリュドミーラ序曲、ハチャトゥリヤンのピアノ協奏曲、チャイコフスキーの悲愴というオールロシアプログラム。
山田さんは芸大の出身で小林研一郎の弟子、2009年のブザンソンコンクールの優勝者とのことで、このコンクールで優勝する日本人は意外に少なくなく、その中で最も有名なのが小沢征爾だろうと思います。
マロニエ君は実は山田さんの指揮を目にするのは(聴くのも)初めてだったのですが、いろいろな感想をもちました。演奏は、現代の若手らしく精緻で隅々にまで神経の行き届いた、いかにもクオリティの高いものだと思いますし、とくにこの日はロシア物とあってか、パリ管も最大級の編成でステージに奏者達があふれていましたが、その演奏は完全に山田さんによって掌握されたもので、どこにも隙のない引き締まった演奏だったと思います。とりわけアンサンブルの見事さは特筆すべきものがあったと思います。
ただ、そこに音楽的な魅力があったかということになると、少なくともマロニエ君にはとくにこれといった格別の印象はなく、悲愴などでは、どこもかしこも、あまりに細部まで注意深く正確に演奏しすぎることで流れが滞り、これほどの有名曲にもかかわらず、却ってどこを聴いているのかわからなくなってくるような瞬間がしばしばありました。
そういう意味では、山田さんに限ったことではないかもしれませんが、今どきの演奏はクオリティ重視のあまり作品の大きな輪郭とか全体像というような点に於いては逆にメリハリの乏しいものに陥ってしまっている気がします。ひたすらきれいに仕上がったピカピカの立派なものを見せられているようで、もっと率直に本能的に音楽を聴いて、その演奏に心がのせられてどこかに連れて行かれるような喜びがない。
ちょっと気になったのは、山田さんの指揮するときのペルソナは、いささか過剰ではないかと思えるような情熱的・陶酔的な表情の連続で、これは少々やりすぎな気がしました。
指揮の仕方もどこか師匠の小林研一郎風ですが、彼の風貌および年齢ではそれが板に付かないためか演技的になり、いちいち目配せして各パートを指さしたり、恍惚や苦悩、歓喜や泣き顔などの連発で、いかにも音楽しているという自意識が相当に働いているようで、あまり好感は得られませんでした。
マロニエ君の私見ですが、そもそも演奏中の仕草や顔の表情が過剰な人というのは、パッと見はいかにも音楽に没頭し、味わい深い誠実な演奏表現をしているように見えがちですが、実際に出てくる音楽とは裏腹な場合が少なくありません。ヨー・ヨー・マ、小山実稚恵、ラン・ランなど、どれも音だけで聴いてみるとそれほどの表情を必要とするほどの熱い演奏とは思えず、むしろビジュアルで強引に聴衆の目を引き寄せる役者のようにも感じてしまいます。
小山さんなども、その表情だけを見ていると、あたかも音楽の内奥に迫り、いかにも深いところに没入しているかのようですが、実際はサバサバと事務仕事でも片づけるようなドライな演奏で、その齟齬のほうに驚かされます。
ハチャトゥリヤンのピアノ協奏曲では、ジャン・イヴ・ティボーデが登場しましたが、このピアニストもこの曲も、昔からあまりマロニエ君の好みではないので、とりあえずお付き合い気分で第1楽章だけ聴きましたが、あとは悲愴へ早送りしてしまいました。