やっぱり土台が

スピーカー作りをやっていてあぁ羨ましいと感じるのは、多くのピアノ技術者さんは自宅の他に作業のための工房をもっておられて、あんな作業場があれば一連の作業もはるかに効率的で楽しいものになっただろうと思われることです。

マロニエ君宅には幸いにも、わりに恵まれたシャッター付きのガレージがあるので、当初はそこを作業場にしようかと考えたのですが、当然車の出入りがあることと、スピーカーはいちいち音を出しては変化の具合とか、ちょっとした事を音で確認しなくてはいけないので、これが深夜に及ぶとさすがに近所迷惑になってもいけないということで、まずこの点が最も心配されました。

さらには、マロニエ君は、普段は超ナマケ者のくせして、いったんやるとなると行動が集中型で、思い立ったらいつでもすぐに着手しなくちゃ気が済まないという性格でもあるため、そんなときいちいち離れたガレージに行く煩わしさを考えると、やはりボツになり、結局2台のピアノの足元で、まわりがどんなに散らかって足の踏み場もなくなろうとも、この場でやるしかないという結論に達しました。

いまさらですが、何回見ても、台座のカットの不様さは気にかかりますが、まあこれは覚悟を決めて潔く諦めるより仕方がないようです。そう結論づけて諦めているはずなのに、またそこが目に入って気になってくるから、やっぱり覚悟が決まっていないということですが、まあここはよほどスピーカーが奇跡的に上手くいったときにはもう一度、別の方法で作り直すということも可能ですから、とりあえずそこは考えないということにします。

いや、考えないことに決していることを、見るたびに思い出してはまたそっちのことに思い悩むのですから、つくづくと自分の性格は、形やディテール、すなわち枝葉末節のことが気になってそこに拘るという、まことに損な性分なんだと思いますね、自分でも。
そういう意味ではつくづくとマロニエ君は日本人的で、細かいことが美しく出来上がっていないと、そのあとに続くべき意欲そのものを喪失してしまいます。

もうずいぶん前のことですが、ある田舎の演奏家の方で、なにをやらせても大雑把で仕事の粗い女性がいました。あるとき何かの必要があって彼女から荷物が届いたのですが、届いた梱包の雑で汚いことと云ったらひっくり返るほどで、ほとんど感動すらおぼえて家族総出でしみじみと「観賞」しましたが、ご当人は、中身が届けばいいというわけで至って平気な様子でした。

マロニエ君には逆立ちしてもできないことで、間違ってもあんな風になりたいとは思いませんが、それでもご当人にしてみれば、そこそこ楽しく、明るく、健康的で原始的な、それなりに充実した人生を送っていらっしゃるのかもしれません。
つまるところ、人間の幸福というものは本人の心の中にあるわけで要は「認識」の問題なのですから、皮肉を込めて云えば羨ましい限りです。

その逆のスタイルで思い出すのは、マロニエ君のピアノ調整で今もお世話になっている方ですが、あまりにも鋭い、専門的な、ほとんどマシンのような耳をお持ちであるがために、音楽は嫌いじゃないのにコンサートもダメ、CDなどはどれを聴いてもその劣悪な音質に耐えられずに「買わない聴かない」というお気の毒な状態です。仕方がないので敢えて別ジャンルの観賞などに心を通わせていらっしゃるようです。

その点では、何事もそこそこの価値を理解して、深入りせず楽しんで、享楽的に過ごせればそれに越したことはないのかもしれませんが、まあそれは一般凡人の話であって、そこそこの範疇を突き破ったところへ出現するのが芸術家ですから、彼らに「そこそこ」は逆に危険エリアということになるでしょう。

さて、件のスピーカー作りは、できれば身の程もわきまえず、そこそこを多少ははみ出したものにしたいところですが、そう上手くいきますかどうか…。

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