演奏も演技化

近ごろの演奏を聴いていてしばしば感じること。
それは、技術的にはとても上手いのに要するに演奏の根本であるところの音楽的魅力がなく、つまらないと感じてしまうことは多くの人が経験しておられることと思います。

理由はマロニエ君なりにいくつか考えましたが、ひとつは台本通りに仕組まれ、その通りに進行する演奏であるということではないかと思います。音数の少ない静かな箇所は極力それを強調し、技術的に難しいところは敢えて通常のテンポ以上のスピードで走って見せて高度なメカニックを披露し、さらには楽譜に忠実であることで決して独善的ではない、アカデミックな解釈と勉強もぬかりはなく、トレンドにも長けている。

さらには曲の要所要所では聴衆が期待するであろう通りにテンションを上げ、終盤ではいかにも感動を誘うような音の洪水となってどうだとばかりに締めくくります。
でも、人の感性は敏感です。
仕組まれたものと自然発生したものの違いは、演奏家達が思っている以上に聴いている方というのはわかるのであって、むしろそれに疎いのは演奏者のほうだと思います。
演奏者が真から作品のメッセージを汲み取り、さまざまな経路を辿ることで必然的な表現となり、納得の終わりを迎えているかどうかということは、かなり見透かされていると思うべきでしょう。

政治家でも芸能人でもそうでしょうが、100%ということはないにしても、あるていど心からそう思い信じてしゃべっていることと、台本通りに建前をしゃべっているのとでは、どんなに意志的に抑揚をつけても超えがたい一線というか違いがあります。
超一流の役者ならいざしらず、普通はどんなにそれっぽく演技をしても、やはり本人が本当にそう思っていないものは表に出てしまうし、ましてや役者でなく、音楽や美術のようなその人の内奥からの表現そのものが芸術として成立する世界は、存在理由そのものにもかかわる重大問題です。

絵の世界でも、ここ最近は、誰からも文句の出ない、わっと人が喜びそうな要素を熟知した上で制作に取りかかる作家というものが少なくありません。見ればなるほど良くできているし、たしかに一見きれいですが、見る人の心に何かが残るような真実はそこにはありません。

そういう意味ではマロニエ君は最近、古い演奏も良く聴くようになりました。
だからといって声を大にして云っておきたいことは、マロニエ君ばべつに新しい演奏の否定論者ではなく、懐古趣味でもありません。現代の演奏は上手いし洗練されていて録音はいいし、その点では昔の演奏は朴訥でどうかすると聞くに堪えないものがあるのも事実です。

それでも、昔の演奏の中に見出す素晴らしさは、とにかく自分がこうだと思ったこと、感じたこと、つまり自分の感性に対して正直だということではないかと思いますし、それが出来た時代だったというべきかもしれません。つねにレコードやチケットの売り上げやライバルの動向、評論家ウケを念頭において、無傷で度胸のない演奏をするのではなく、新しい解釈の基軸などにあくせくすることなく、素直に大らかに演奏しているその個性的な演奏に心を打たれることが少なくありません。
聴衆も演奏家を信じていましたし、それに演奏家も応えていた幸福な時代でした。

音楽を聴くときぐらい、演奏家の真意を信じたいものです。

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