購入して一度聴いて、ピンと来るものがないままほったらかしにしてしまうCDというのは、マロニエ君の場合、決して珍しくありません。
エレーヌ・グリモー&バイエルン放送響室内管によるモーツァルトのピアノ協奏曲第19番&23番もそんな一枚でした。一聴して、そこに聞こえてくる世界に、自分の好みというか、なにか体質に合わないものがあると感じてそのままにボツになってしまっていたわけですが、たまに積み上げたCDを整理するときに、こういうCDと思いがけず再会し、せっかく買ったわけでもあるし、もったいないという気分も手伝って再びプレーヤーへ投じてみることになりました。
やはり基本的には、最初の印象と大きく変わるところはありませんが、二度目以降は多少は冷静に聴くことも可能になります。なにが自分の求めるものと違うのかというと、ひとくちに云うなら、モーツァルトには演奏が非常に「硬い」と感じる点だろうと思われます。
彼女のレパートリーにも関連があるのかもしれませんが、これらのモーツァルトの協奏曲を自由に表現するには指の分離がいまいちという印象があり、軽やかであるべき(だと思う)箇所がいかにも硬直したような感じが否めないのは最も残念な点だと思います。
グリモーの魅力は演奏のみならず、プログラミングに込められた独自の主張でもあり、ただレコード会社の命じるままに凡庸なプログラムを弾いていく平凡なピアニストとは異なります。
今回のCDでも2つの協奏曲の間にはコンサートアリアKV505「心配しないで、愛する人よ」が納められており、モイカ・エルトマンが共演しています。この作品は第23番の協奏曲と同時代に作曲されていることも選曲された理由だと思いますが、こういう組み合わせにも彼女の独自性が感じられて、そのあたりはさすがだと思わざるを得ません。
とくにこのコンサートアリアは同時期に仕上がったと思われる「フィガロの結婚」の要素が随所に見られて、この時期のモーツァルトの筆も乗りに乗っていることを感じさせる魅力的な作品ですし、ソプラノ、オーケストラ、ピアノという編成も珍しいと思います。
この曲を聴くだけでもこのCDを買った意義はあったな…と思いましたが、両協奏曲に聴くグリモーのピアノは冒頭に書いた硬さのほかに、どこかに息苦しさのようなものを抱えていて、マロニエ君としてはもう少し楽々としなやかに翼を広げるような自由とデリカシーの両立したモーツァルトを好みます。
ひとつにはグリーモーのタッチの重さと、さらには音色のコントロールがあまり得意ではないということで、いかにも固い指を必死に動かしているという印象が拭えません。
その必死さと音色の重さ(彼女はキーの深いところで音を出すピアニストのようです)がモーツァルトとは相容れないものとなり、聴いていて解放される喜びが味わえないのだと思いました。
しばしば見られるロマン派のような表情やルバートにもやや抵抗があり、とくに第23番の第二楽章などはこんなに重々しく弾くとは驚きでしたが、救いは第三楽章でみせた快速が、かろうじてそれをぎりぎりのところで洗い流してくれるようでした。
ある方の書き込みによると、レコード芸術によればグリモーはホロヴィッツとジュリーニが協演した23番を聴いて感銘を受けて、自分もブゾーニ作曲のカデンツァを弾いて録音したそうです。ところが協演のアバドがこれに難色を示して直前になってモーツァルトのカデンツァを練習して別に録音をしたとか。しかしグリモーは「どのカデンツァを選ぶかはソリストに権限があるはずだ」と譲らずに、結局アバドとの録音はお蔵入りとなったとか。
マロニエ君もグリモーの主張には全面的に賛成で、アバドともあろうマエストロがくだらない事をいうもんだと思いましたし、それに怯まないグリモーの見識と主張には脱帽です。