先日、グリモーのモーツァルトがマロニエ君の好みでなかったことを書いたばかりでしたが、ふとしたことから彼女が1999年にニューヨークでライブ録音したベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を聴いたところ、こちらは手の平を返したような名演で、まさに感銘を受けました。
指揮はクルト・マズア、ニューヨークフィルとの共演です。
もともとグリモーは、若い頃からフランスの女性というイメージに敢えて反抗するように、フランス音楽やショパンに背を向けてロシア音楽を好み、ドイツ音楽に傾倒しているなかなかの重厚な趣向の持ち主で、その見た目と彼女の内面はずいぶん違うピアニストと云っていいと思います。
したがってベートーヴェンの協奏曲(中でもあの4番!)を通りいっぺんの演奏をする凡庸な人とは思っていませんでしたが、それは遙かに想像を超えるものでした。少なくともマロニエ君は、これほどまでに活気と情熱に溢れ、しかもそのことがまったくこの傑作の品位をおとしめていない、表情豊かな自発性に満ちた4番の演奏を聴いたことがありませんでした。
普通なら、いわゆるベートーヴェンらしい3番と豪壮華麗な5番「皇帝」に挟まれた、この貴婦人のような4番に対して自分の考えを強く演奏に反映させて個性的に弾くピアニストはなかなか見あたりません。それは作品そのものが全編を通じてデリカシーと気品を絶え間なく要求してくるし、自分を表出させる隙がない難しい曲ということもあるでしょう。さらにはこのような至高の傑作を自分の演奏でよもや傷つけてはいけないという慎重さが働いて、大半のピアニストはほとんど用心の上にも用心を重ねながら安全運転で弾いているようにしか聞こえません。
あえて名前は書きませんが、ある日本の有名な女性ピアニストは3番&4番という二曲を収めたアルバムを以前にリリースしていますが、それは優等生の手本のような型通りの、何事にも一切逆らわず、ひと言でも自分の考えを言わない、テストなら満点の取れそうな演奏で、こんな運転免許の実技試験みたいな演奏が出来るということに逆に驚くほどでしたが、それほど4番はそういう傾向の平凡な演奏をされることの多いことがこの作品の悲しい運命のような気がしていました。
ところが4番に聴くグリモーはそんな畏れなどまるで無関係といわんばかりの体当たり勝負で、自分のパッションに正直に曲を重ねて活き活きと語り進んでいきます。同時にそれが普遍的な美しさと魅力を湛えているのですから、これは見事というか天晴れだと思わずにはいられません。
グリモーは、技巧的には現代のピアニストの中では取り立てて自慢できるようなものをもっているわけでもなく、むしろその点ではやや弱さを抱えている部類とも思いますが、にもかかわらず、自身の音楽的趣向と感性に従って重厚な曲に敢えて挑戦を続けている姿勢は10代の時分から変わっていないようです。
マロニエ君の感じるグリモーの魅力を云うならば、力量以上の大曲に挑む故か、常にハイテンションな全力投球の演奏から聴かれる熱気と、作品に対する畏敬の念がもたらす手応えの強さだと感じます。そのためにグリモーの演奏には作品の偉大さを常に感じさせ、全力投球の演奏行為が醸し出す重量感が溢れ出し、余裕のテクニシャンには却って望み得ないような緊迫した演奏が聴かれるところではないかと思います。
この4番の他には、なんと後期のソナタのop.109とop.110が入っており、これもまたなかなかの瑞々しさの中に奥行きのある演奏で、なかなか立派なものでした。