ピーター・ゼルキン

先日のBSプレミアムでは、タングルウッド音楽祭の創立75周年記念ガラ・コンサートの様子が放映されました。
出演者もさまざまで、ボストン交響楽団、タングルウッド音楽センター・オーケストラ、エマニュエル・アックス、ヨーヨー・マ、アンネ・ゾフィー・ムター、ピーター・ゼルキン、デーヴィッド・ジンマン、その他のスター達が入れ替わり立ち替わり演奏を披露しましたが、トリを務めたのはなんとマロニエ君にとってある意味鬼門でもあるピーター・ゼルキンをソリストとしたベートーヴェンの合唱幻想曲でした。

「やはり」というべきか、出だしから、マロニエ君にはまったく理解不能なピーターの演奏が始まり、私はこの人のピアノは何度聴いても、ご当人がどういう演奏をしたいのかまったくわかりません。ただ単に自分の好みではないということに留まらず、むしろ疑問と抵抗感ばかりが増してくるのが自分でも抑えられません。

テンポが遅いだけならまだしものこと、音楽であるにもかかわらずマロニエ君の耳にはリズムも語りもまるで恣意的な、一口でいうとめちゃめちゃなものとしか捉えられないのです。
指も何か病気なのではと思うほど動かないし、あちこちに?!?という意味不明なヘンな間があったり、聴いているこちらはまったく波長がズレてしまうばかりです。そればかりか、あきらかに鳴らない音なども頻発したりと、これではピアニストとしての基本さえ疑います。
それに、なにかというと打鍵した指を弦楽器奏者のヴィブラートのようにプルプル震わせる、あの仕草も神経に障ります。これをやるのは日本人有名女性ピアニストにもいらっしゃって見ていて鳥肌が立ちます。

さらにこのピーター・ゼルキンで驚くのは、彼を表現者として絶賛するファンがとても多いことで、彼の欠点には目もくれず、彼こそ真の芸術家というような調子の褒め言葉を濫発させるのには、いつもながら驚いてしまいます。
彼の価値がわからないということは、音楽そのものの真価がわからないとでも言いたげな論調で、まったく呆れるばかり。
まるでピアノは勝手にワガママにのろのろと下手に思いつきのようフラフラに弾いた方が、よほど芸術家扱いされるかのごとくです。

実はマロニエ君には苦い思い出があって、そこそこ親しくしていた関東在住のあるピアニストと雑談をしているときに、たまたまピーター・ゼルキンの話が出たのですが、私はあまり好きではないというような意味のことを言ったら、みるみるその人の態度が変わり、それ以降のお付き合いにまで距離ができてしまったことを思い出してしまいます。

しかし、今回もあらためて大編成の合唱幻想曲を聴いてみて、前半のピアノソロの部分なども、その遅いテンポをはじめとしてまったく彼個人の自己満足としか思えず、聴衆の顔にも明らかに退屈と困惑の表情が見て取れましたし、名門ボストン響のメンバー達もテンションが下がりまくりで、ともかくこのコンサートの最後だから無事に終わらせようとしているようにしか見受けられませんでした。
後半の歌手達の出だしなども、ピーターの勝手なテンポとフラフラのリズムのせいで、おっかなびっくりで歌っているのが明らかです。

それでも素晴らしい人にとっては素晴らしいのかもしれませんし、そこは主観なのでもちろんご自由ですが、マロニエ君の耳目には、ひどく鈍感で空気の読めない、偉大な父と自分の個性表出に汲々としてきただけの、歪んだエゴイストにしか見えませんでした。
フルオーケストラと6人の歌手、それをとりまく合唱団は、たったひとりのこのワガママ老人のようなピアニストのせいで、本来の実力とは程遠い演奏を余儀なくされたという印象を拭うことはできませんでした。
指揮者のジンマンにしたところで、彼の鮮烈デビューはキレの良い、まるでモーツァルトのようなシャキシャキとしたベートーヴェンだったものですが、当然ながら別人のような、まるでピアニストを指揮者という立場から介護でもしているような棒でした。

これだけ大勢の音楽が出揃っていながら、演奏には覇気がなく、とくにピアノパートではこんな肯定的な有名曲にもかかわらず、ふと何を聴いているのかさえわからないような箇所があちこちにありました。
むかし、交通標語に『荷崩れ一台、迷惑千台。』というのがありましたが、この合唱幻想曲はまったくそんな印象でした。

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