月刊誌『ピアノの本』では、このところ連続してヤマハの技術者の方を取り上げた記事が載っていて、マロニエ君も特に楽しみな連載コーナーなのですが、11月号は酒井武さんというヤマハアーティストサービス東京に在籍する方でした。
過日NHKのクラシック倶楽部で放映されたニコライ・ホジャイノフはヤマハCFXを使って好ましい演奏をしていましたが、記事にはホジャイノフと酒井氏のツーショットも掲載されていますから、日頃からコンサートの第一線で活躍されるヤマハ選りすぐりの技術者であるだろうことは容易に推察できます。(ホジャイノフは、この来日時にはCD収録もしたようです。)
ところで、この酒井氏の経歴で目についたのは、ある時期に「本社工場・特機制作室」という部署へ異動されたと書かれている点でした。ヤマハピアノの本社工場・特機制作室とは何をするところなのか…というのが率直な疑問で、マロニエ君なりにあれこれと察しがつかないでもありませんが、それは想像の域を出ませんから、それを敢えてここで書いたところで意味はないでしょう。
まあ、ともかくも、ヤマハにはそういう、なんとなく秘密めいた想像をかき立てる部署があるということは確かなようです。
今回の酒井氏の言葉にも、いろいろと含蓄のあるものがありました。
たとえば、調律師としての感性を磨くための心がけは?という問いに対しては、「生活のすべてにおける感動する気持ちが大切〜略〜些細なことにも五感を働かせて“感じる”ことで、センスや自分自身を磨いていく」というものでした。
ピアノを細かく調整して、芸術的な音を作り出すような職人が、仕事以外ではごくありふれたラフな気分で生活していたのでは、そういう至高の領域での仕事はできないということでしょう。タッチや音色の微細な違いを感じ分け、より良いものを作り出す能力は、まず自分自身がよほど性能の良いセンサーそのものである必要があるのでしょう。
そして、この高性能なセンサーと合体するかのように、ピアノ技術者としての専門的かつトータルな能力があるのだと思います。
マロニエ君もパッと思い起こしてみても、ピアノ技術者の皆さんはいうまでもなくそれぞれの個性をお持ちですが、わけても一流と感じる人達は、皆非常に繊細な感性の持ち主です。
この点に例外はないとマロニエ君は断定する自信があります。
もうひとつ興味深いお言葉は「楽器に入りすぎて視野が狭まり、思い込みによる調律をしてはいけません。」とあり、演奏を聴いていると、調律師という仕事柄どうしても“音”にフォーカスしてしまうことが多いのだそうで、これは技術者の方は多分にそういう方向に流れるだろうと思っていました。「しかし、聴きながら“音”への意識が消えるほどに良い音楽が流れていたとき、振り返るとそれはまさに“良い音”が鳴っている瞬間だったと気がつく」とあり、これこそ大いに膝を打つ言葉でありました。
調律師の中にはなかなかの能力をもっておられるけれども、自分の音造りに拘ってそのことに集中するあまり、逆に音楽的でないピアノになってしまうという例もマロニエ君はずいぶん見ています。
こうなると調律師が作り出した音や調律が主役で、ピアノは素材、ピアニストはただそれを弾いて聴かせる演奏係のようになってしまいます。
楽器は重要だけれども、あくまでも演奏を音にし、音楽を奏でるための道具という域を出ることは許されないと思います。パッと聴いた感じはいかに華麗で美しいものであっても、そればかりが無遠慮に前面にでるようでは結局音楽や演奏は二の次で、あとには疲れだけが残るものです。
本当に一流というべきピアノ技術者の方の仕事は、ピアニストや作品を最大限引き立てるようなものであり、楽器としての分をわきまえていなくてはならず、あくまで演奏や音楽を得てはじめて完成するという余地のようなものを残していなくてはならないと思います。
それでいて音や響きは美しく解放されて、印象深くなくてはならず、演奏者をしっかり支えてイマジネーションをかき立てるようなものでなくてはならないわけで、非常に奥深くて難しい、まさに専門領域の仕事であるといわなければならないでしょう。
中には派手な音造りをすることが自分の拘りであり、他者とは違う自己主張のように思い込んでいる人もいますが、この手は初めは美味しいような気がするものの、すぐに飽きてしまう底の浅い料理みたいなもんです。
要は「音にフォーカス」するのではなく「音楽にフォーカス」すべきだということで、これはまったく似て非なるもので、後者を達成するのは大変なことだろうと思います。