続・五嶋みどり

五嶋みどりさんのことをもう少し…。
彼女ほどの世界的な名声を得ながら、なにがどうあっても電車やバスを乗り継いでひとりで移動し、夜は自分でコインランドリーに行くという価値観は、それを立派と見る人にはさぞかしそう見えることでしょう。でもマロニエ君は非常に屈折したかたちの一種の「道楽」のようにも感じました。

そんなにまで普通の人のような粗末なものがお好みなら、終身貸与された、時価何億もするグァルネリ・デル・ジェスなんてきれいさっぱりオーナーに返上して、いっそ楽器も普通のものにしたほうが首尾一貫するようにも感じます。

思い出したのは、司馬遼太郎さんは生前、頻繁に取材旅行に出かけたそうですが、なんのこだわりもない方で宿はどこでもいいし、大好きなうどんかカレーライスがあればそれでよし、編集社にとってこんな手のかからない作家はいなかったということでしたが、そういう事と五嶋みどりさんの場合は、流れている本質がちょっと違っているような気がしました。
何かを貫き、徹底して押し通そうという尋常ならざる強引な意志力が見えて疲れるわけです。

ツアー中、ビジネスホテルのロビーでも、ちょっと時間があるとたちまち大学の資料に目を通すなど、まさにご立派ずくめで一分の隙もありません。遊びゼロ。それが彼女の演奏にも出ていると思います。
インタビューの対応も、いつもどこかしら好戦的でピリピリした感じがします。

「同じ服を着るのはよくない…etcと云われるのが、私には、いまだによくわからない」と言っていましたが、頭も抜群にいい彼女にそんな単純な事がわからない筈がない。むしろ彼女は誰よりもその点はよくわかっているからこそ、よけいに自分の流儀を崩さないのだとマロニエ君には見えました。
もちろん随所にカットインしてくる演奏はあいかわらず見事なものでしたが、教会はともかく、日本の寺社仏閣を会場として、キリスト教とは切っても切れないバッハの音楽をその場に顕すというのは、マロニエ君は本能的に好みではありません。

太宰府天満宮、西本願寺、中尊寺など由緒あるお宮やお寺と、キリスト教そのもののようなバッハの組み合わせは違和感ばかりを感じてしまうからです。

こういうことを和洋の融合とか斬新だとかコラボだのと褒め称えることは、言葉としてはいくらでも見つかるでしょうが、どんなに好きな西洋音楽でも仏教のお寺などは、その背景に流れるものが根本から違っているだけに、マロニエ君の感性には両方が殺し合っているようにしか見えませんでした。

以前、アファナシェフが京都のお寺でピアノを弾くという企画をして、それが放送されたときにも言い知れぬ抵抗感を感じました。
これらは決して非難しているのではありません。ただ単にマロニエ君は個人の趣味としてどうしても賛同できず、却って薄っぺらな感じを覚えるというだけです。

ただし、ひとつだけは個人的な趣味を超えていると感じたこともあり、それはとくに京都の西本願寺の対面所の前にある能舞台で弾いたときには、運悪く真夏の大雨となり、盆地の京都ではこのとき湿度はなんと90%にも達していたとか。もちろん屋根と細い柱以外に外部とはなんの囲いもありません。
そんな中で借り物のグァルネリ・デル・ジェスを晒して弾くというのは、楽器に対する芸術家としての良心として、自分なら絶対にできないことだと思いました。

マロニエ君だったら、グァルネリはおろか、ヤマハやカワイのピアノでもできないことだですね。
衣装に凝らず、公共交通機関を使い、ビジネスホテルに泊まって、夜はコインランドリーにいくということは、世界の名器に対する取扱いもこういうことなのか?…と思ってしまいます。

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