続・重めのタッチ

自宅のピアノのタッチが適度に重いというのは、とりわけピアニストには有効なのではないかとあらためて感じているところです。
ピアニストのピアノはアマチュアの愛好品とは違いますし、大抵は複数のピアノを所有していらっしゃる方が多いと思われますので、一台は専ら練習機としての位置付けであることも有効ではないかと思います。

そして練習用ピアノは日頃からやや重めにしておくほうが、現代のやたら弾きやすい軽めのピアノばかり弾いて、それが知らず知らずのうちに基準になってしまうのは何かと危険も増すような気がします。本番となれば楽器もかわり、柔軟な対応も迫られるわけですが、これが最終的には指の逞しさにもかなり依存する要素のようにも思うのです。

その点、少し重い鍵盤に慣れた指は、軽い鍵盤のピアノに接しても比較的楽に対応できますし、その余力でいろんなコントロールができるなど、結果的にある種の自信になったり、思いがけない表現やアイデアを試してみることさえできますが、逆の場合は大変です。
軽いタッチに甘やかされた指はいざというときなかなかいうことを聞かず、滞りなく弾き通すだけでも大変でしょうし、出てくる音は芯のない変化に乏しいものにしかなりません。

聞いた話ですが、ピアニストの中にはやたらと繊細ぶって、ほんの少しでも重めのタッチのピアノを弾くと「こんなピアノでは、ぼくは、手を壊してしまいそうだ…」などと大仰に云われる方もおられて楽器店の人を慌てさせたりするんだそうですが、いやしくもプロのピアニストで、その程度のことで手を壊すなんて、一体なにが云いたいのかと思います。
グレン・グールドが云うのならわかりますけど。

ピアニストという職業は、一般にどれぐらい認識されているかどうかはわかりませんが、端から見るより極めて苛酷な、心身をすり減らす重労働であり、これに要するストレスは並大抵ではないと思います。
基本的な体力や精神の問題、繊細かつタフな指先の運動能力、暗譜や解釈はもちろん、最終的にどういう表現をしてお客さんに聴いてもらうかという最も大切な課題など、書き始めたらキリがない。

少なくとも人間の能力の極限部分をほとんど削るようにしておこなうパフォーマンスであることは間違いないと思われます。そんな極限の場において、最終的に頼れるものは才能と練習しかないわけでしょう。

そういうときに、会場のピアノが弾きにくいなどの問題があるとしたら大問題ですが、ピアニストの辛いところはここで文句がいえないばかりか、お客さんにはいっさいの弁解無しに結果だけをキッパリ聴かせなくてはなりません。
そんなとき、ただ楽な軽いタッチのピアノでばかり練習していた指が頼りになるかといえば、マロニエ君はとてもそうは思えません。

また、こういうことを言うとすぐに誤解をする人が出てきます。
日頃から重いピアノでばかり弾いていれと、筋力的には逞しくなっても、繊細な表現ができなくなるとか、叩くクセがつくというものですが、それはとんでもない間違いだと思います。音楽に限りませんが、チマチマした小さいことばかりすることがデリケートなのではなく、必要とあらばどうにでも対応できる本物の力量と幅広さを持つことでこそ、真に自在な、活き活きとした、時に人の心を鷲づかみにするような演奏ができるのだと思います。

リヒテルやアルゲリッチは基本的に美音で聴かせるタイプのピアニストではありませんが、彼らがしばしば聴かせる弱音の妙技は人間業を超えたものがあり、それはあの強靱この上ない指の中から作り出されているものだと云うことは忘れるべきではないでしょう。

マロニエ君のような下手クソの経験では説得力もありませんが、タッチを重くしたピアノを半年弾いた後のほうが、自分なりによりレンジの広い雄弁な演奏をするようになったと(自分だけは)思いますし、繊細さの領域に限ってももっと気持ちを注ぐようになりました。
これは間違いありません。

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