なかなか言えない

現代のような社会では、発言という点に於いて一見自由なようでありながら、実際は恐ろしく閉塞的で、まるで言論監視社会のような印象を受けることしばしばです。

聞こえてくるのは、何事も褒めておけば安全で間違いなしといわんばかりの言葉ばかりで、音楽評論などにもほとんど期待が持てません。もしも故野村光一氏のような人が現代に蘇って自分の感じたままの自由闊達な文章を書いたとしても、おそらく出版社がそれを受け容れないでしょうし、先の吉田秀和氏の逝去をもって、ますます音楽評論の世界も欺瞞という深い闇の中へ落ちていくような気がします。

マロニエ君は、ちかごろの音楽雑誌のコンサート批評などまったく一瞥の価値すらないと思っているのは、この分野も営業主義が跋扈していて、コンサートの有料広告を出すピアニストは出版社にすれば「ありがたいお客様」であり、後日のコンサート批評では決まって好意的な文章ばかりが並びます。これは言ってみれば、営業サイドからの暗黙のお返しのようなものだと解釈しています。

なるほど書く人の肩書きは音楽評論家となっていますが、編集方針に従わない人はライターとしてのお声はかからないという営業中心のシステムがしっかりと出来上がっていると推察できます。それを百も承知で有名無名のピアニストは、だから高い広告料を出し、有名雑誌誌上での「演奏会予告」と「好ましい批評」を二つ同時に買っているようなもので、その中からとくに好ましい部分を次のチラシなどに引用するという、持ちつ持たれつの関係となり、これはまさに嘘っぱちの世界です。

自分が普通に思うこと感じることを、生きるために決して言えない社会というのは人間にとってこれほど気詰まりなものはありません。
さる知り合いから「誰にも言えないから」ということでおかしなメールをもらいました。
マロニエ君はベートーヴェンを猛烈に好きなので同意はしませんけれども、一面に於いてこういう感じ方があるということはわかるような気もするし、理解はできます。
とても新鮮でしたので、ちょっとだけご紹介します。


誰も賛成してくれないかもしれませんが、わたしはベートーヴェンだけは嫌いです。

あの、「これが芸術だ」といわんばかりのリキみかえった音楽、聴いてて「カンベンして」という気分になります。

年末に必ず演奏される「第9」。あのくそまじめ風だけどなにいってるかさっぱりわかんない歌詞、なにこれ?ってかんじです。あんなもので「感動」するひとたちの気が知れません。まあ、お正月前の浮世離れした気分でバカ騒ぎしたいっていう程度ならそれもいいかっていうくらいです。あのメロディーもなんのへんてつもない間延びした音の羅列。お経みたい。

「運命」にしても、はっきりいって「くさい」。運命と戦って勝利に至る?そんな音楽聴きたくもない。

ワグナーも図体ばかりでかくて中身はからっぽ、という感じ。「指輪」なんて聴いても疲れるだけでなにも残らない。せいぜい「ワルキューレの騎行」とか、やけに威勢のいい音楽だな、っていう程度。そこだけ取り出せば、「地獄の黙示録」のバック音楽としてならよくできてると思う。

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