物置の整理

このところ、暇を見つけては物置の整理をしています。
訳あってどうしてもこの場所にある夥しい量の荷物のすべてを一旦外に出さなければいけなくなり、初めは途方に暮れましたが、やむを得ず少しずつ整理をやっています。

よそのお宅のことは知りませんが、少なくとも我が家に限っていうと、物置というのは、必要な物を一時的に置いておく場所というよりも、大半は使うことのない、どうしようもないものをとりあえず置いておく、いつの日か必要になるなどと思いながら、長い年月をかけてただただ無意味に積み上げられ、多くの品々は時間と空間を食い尽くし、ムダと不便と不衛生を撒き散らすだけの場所だということをしみじみ感じてます。

整理といっても、要するに捨てる物を引っ張り出す作業が大半で、いかに無駄な物によって貴重ともいうべきスペースが惜しげもなく占領されていたかという愚かさを思い知らされる毎日です。

たしかに、中には昔なつかしい大切なものがあるのも事実ですが、そんなものは全体から見ればほんの一部にすぎず、大半は処分にも困るような品々が堆く積み上がっているにすぎません。
当然ながらゴミやほこりもあるわけで、このところ使い捨てのマスクと手袋はすっかり必需品になりました。

あらゆるものが物置という名の永遠の住処に移されて、時間と共に、その量は凄まじいまでに膨れ上がっていました。

実に種々雑多なものがありましたが、困るのはいただき物などに代表される未使用品などで、傷んでいないけれども、さりとて使うあてもないものです。古いというだけで新品もしくはそれに準じるようなモノをポンポン捨てるのも抵抗があり、もらってくれる人でもあるなら喜んで差し上げるのですが、そんな奇特な人もいないでしょうし、だいいち人にもらってもらうためにいちいち時間をかけ、人を呼んで意思確認などしていては整理自体がいつ終わるとも知れません。
やむなく、心を決めて潔く不要なものは処分するという決断に踏み切りました。

それでも一番困るのは、衣服だということも今回初めて知りました。
とりわけ亡くなった家族のそれは、自分の身内が直接身につけていたもので、覚えのあるものもあり、それを他の不要品と同様にゴミ袋に投下するのは精神的になかなかできることではありません。

でも、じゃあどうするの?となったとき、大げさにいうなら「この世に、これほどどうしようもないもの」もないわけです。
再利用の見込みなどまったくなく、客観的価値などさらさらないもの、それが個人の衣服類なんですね。

家人とも相談し、あれこれ悩みましたけれども、結論としては不本意ではあるけれども、それを言っていたらキリがないし、もうそれを着る人はもうこの世にはいないのですから、家族の思い出という名の下に、これ以上留め置くことは意味が無いという結論に達しました。

まあ、ひとたび決心して行動し始めるとそれほどでもなく、処分した後は却ってスッキリした気分になれたのは意外でした。
ある種の物や作品などは、故人の物でも保存することになんら問題はありませんが、いかんせん衣服というのはその点独特で、それ自体が主を失ってすでに死んでいるような気がしました。

これはもちろんマロニエ君の私見ですが、亡くなった人の衣服などを必要以上に取っておくことは、故人を偲ぶこととは似て非なる事のような気がしますし、むしろこういうものが家の中にどっさりあるほうが、ある意味では不健康という気もするようになりました。

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