変人の純粋

マロニエ君は世に言う「変人」という人達が、世間一般よりも嫌いではありません。もちろん変人にもいろいろありますから、その中のごく一部ということになるのかもしれませんが。

ある時にふと気が付いたのですが、いわゆる変人というか、ちょっと変わった人というのは、興味深いことに自分以外の変人には極めて冷淡な場合があるようで、これには驚きました。同性や、同じ職業の人の間に流れる緊迫感と同じように、変人同士というのは一種のライバルになるのでしょうか。

こういうことを書いて誤解されると困りますが、マロニエ君は中途半端な常識人よりは、却っていささかぐらいなら変人の方がウマが合う場合が少なくありません。
それはアナタ自身が変人だからでしょう!と言われてしまいそうですが。

変人というのは、人よりもどこか変わっているぶん、俗事に疎く、そのぶん純粋である場合があるということをマロニエ君は経験的に知り、ホッとさせられるものがあるのです。
悲しいかな現代人がなにかにつけ計算高く、人を無邪気に信頼できなくなっているこの時代、そんな中でいささか外れた道を歩んでいる変人には、却って正直で信頼に値する一面があるからだと思います。

尤も、この変人にしろ常識人にしろ、その定義は甚だ難しいので、ここはあくまでも自分の主観によって判じ分けているわけですが、とにかく個人的に苦手なのは平凡で食えない平均人です。
とはいっても変人にも程度問題というのがあって、お付き合いに支障が出るような御仁もいらっしゃいますから、そのあたりは到底マロニエ君の手に負えるものではありませんが、多少ならば純粋さの代償として無意識のうちにこちらのほうを好んでいると自分に気づきます。

では変人の特徴はどこにあるかということですが、まっ先にマロニエ君が単純素朴に思いつく要素は、人に合わせること、つまり協調の機能が弱い人ということになります。さらには、そのためにいろんな損もしている人ということでしょうか。
純粋ぶっていても、それを計算や演技でやっている人は、人一倍損得勘定に長けていて、決して損になるようなことはしませんし、そのあたりは逆に普通以上に用心深かったりしますが、天然の変人はそのあたりはまるでお構いなしで、見事に己の道をまっしぐらです。

これは信念や度胸があるからではなく、それしかできないからみたいです。

変人には変人なりのバラエティに富んだ特徴があり、とても一口に言い表すことはできませんが、困ったパターンとしては他者にめっぽう厳しいということがあるように思います。自分も変人のクセして自分以外の変人とは絶望的に相性が悪く、気持ちの上でも決して寛大さを見せてくれません。自分が出来ないことは多々あっても、自分が出来ることで人が出来なかったら、その批判や追求などは容赦ないものがあります。

このパターンは、思うに変人は変人故に、平生から常に人からハンディといえば語弊があるかもしれませんが、少なくとも相手の我慢によって支えられ、寛大に接してもらうことに慣れている場合が多いのですが、相手も変人となれば、普通の人のように特別扱いはしてくれないために、そこでなんらかの火花が散り、相手を敵視し、本能的に避けようとするようです。

動物が嫌いな人の中にも、このパターンを認めることができますが、動物(とくに犬猫)は、人間にハンディはくれませんし、それでも寛大に愛情深く接することが要求されますから、ある種の変人にこれができないのはなんとなく頷ける気がします。
吉田茂は犬が嫌いな人間とは口もきかなかったと言いますが、それもなるほどひとつの物差しだとはいえるでしょう。

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