車に見えるもの

このところ険悪な状態となって久しい日中関係ですが、中国の話題に接するたび、過去何度か訪れた中国のことをよく思い出します。現地に行くと、目に飛び込んでくるものには驚かされることの連続で、おかげで退屈しているヒマなんてありません。
すごいことは文字通り山のようにあって、はじめはいそがしくあちこち目が向きますが、しだいに落ち着いてくると、少し冷静な目を向けられるようにもなります。

たとえば車です。
中国にはむろん中国製の車もそれなりには走っていますが、現地生産を含む日米欧の高級車の割合が高く、日本でいうとバブルの頃を思い出すような大型車が街中にあふれています。何でも大きいほどエライ、値段が高いほどエライという尺度がこの国では単純明快すぎるほど支配しているようで、その割りにどれもあまりきれいではなく、街も車も大抵はかなり汚れているのも特徴です。

それに較べると、日本に帰ってきてまっ先に感じるのは、とにかく街が清潔で感動的に美しいことと、走っている車もきれいだけれども小さいことです。どうかすると信号待ちなどをしていて周りはすべて黄色いナンバーの軽自動車に取り囲まれるなんて状況も決して珍しくはありません。普通車でも、今やコンパクトカーの占める割合が大きく、とにかく以前のような高級大型車が肩で風を切って走っているというような光景は劇的に少なくなりました。

マロニエ君は昔からクルマ好きで、いまだに購読を続けている自動車雑誌もありますが、自動車文化としての観点から大雑把に云うなら、必要以上に大きい車に乗りたがる人ほど、平たくいうとハッタリ屋で、拭いがたいコンプレックスの裏返しという事は社会学的にも裏付けられています。
それは社会が未成熟なほど、車がステータスシンボルとしての役目を果たすからで、当然のようにそんな心理にはまった人達は自分のライフスタイルに沿った、TPOに適った、身の丈に合った、知的で良識ある車選びということが出来ません。
もっぱらの問題は収入や預金通帳の残高と、見栄えの良さや話題性の高い注目度の高いモデルであるか否かばかりが判断基準となります。

その点では、現在の日本はというと、日本人の精神的成熟の度合からというより、長引く不景気やデフレが背景となって、誰も彼もが続々と小さい車へと乗り換えました。マロニエ君も一時はおもしろ半分にそんな手合いに乗ってみましたが、やはり自分の用途と体型と趣向に合致しないことがわかり、昨年乗り換えたばかりですが、今の日本の小型車志向、さらには自転車依存はむしろ不健全な印象で、この点はアベノミクスによって今後は少しでも改善されればと思います。

逆に、むやみに大きな、分不相応な車に乗る人というのは、実は本人が思っているほど傍目にカッコイイものではないことは断言できます。ベンツのSクラスやレクサス、あるいは空間を運んでいるだけみたいな大型の仰々しいワンボックスや大きなRV車などを、拙い運転の女性がアゴを突き出しながら乗って来て、スーパーの駐車場などでさも不自由そうに、なんとか駐車枠に止める奇妙な光景などを目にすると、逆に気の毒で、かえって貧相なものを見ているような気分にさせられます。

一方、男もずいぶんと運転に関しては変わりました。
もちろん高価なスーパーカーや大型高級車がもつ車の威を借りて、これみよがしに走り回る連中なんかが男性的だなどとは云いませんが、少なくとも自分の運転技術を磨いてスポーツカーをいかにスムーズで美しく乗りこなすかという、技巧派のモータリストの類などはすっかりマイノリティーになってしまったのかもしれません。「峠を攻めに行く」なんて言葉も死語に近いようですが、この言葉が生きていた時代の男は平均して女性より圧倒的に運転が上手い時代でした。
今は燃費や維持費ばかりを偏執的に気にして、そのためのケチケチ運転をするドライバーが大繁殖していて、覇気もなく、なにか大事なものを失ってしまったかのようです。むろん何に価値を置き、何に熱中しようと、それは人の勝手ですけれども…。

車に限ったことではありませんが、物事の本質を極めたいと願うような純粋な精神はだんだんに失われ、何事も薄味の、甚だ色気のない時代になっていることは間違いないようです。

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