断捨離

この数年でしょうか、断捨離(だんしゃり)という言葉をときどき耳にします。
テレビ番組で、部屋の収納術とか片づけなどに際して、よくこの言葉が使われているので、なんとなく要らないモノを思い切って捨てるという意味かと思っていましたが、ネットのウィキペディアを見ると、もっと深い意味があるようです。

以下、一部引用

『ヨガの「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方を応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え。単なる片づけとは一線を引くという。

断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる』

〜なのだそうで、これはなかなかマロニエ君にはできそうにもないことです。
このところ腹をくくって物置の片づけなどをやっているのですが、いざ手をつけてみると自分でも呆れるほど様々な物が次から次へと出現して、別になくても何の不自由もない物は数多く、いかにそんな不要物に囲まれながら生活していたのかという現実を痛烈に思い知らされます。

これがいわゆる転勤族などであれば、嫌でも物の量は少なくなるでしょうし、むやみに物が増えないようにするという生活習慣が自然に身につくのだろうと思いますが、マロニエ君の家は代々そうではないためもあってか、そのあたりの意識がほとんど欠落しているようです。

たしかに不要な物を捨てることは、物質上あるいは空間のダイエットをするようで、不思議な快感があるものです。マロニエ君の場合、とりたててモノに執着しているというつもりはないのですが、整理と廃棄に着手するのがただ面倒というだけで、いざやりはじめると物を捨てたぶん場所は広くなるし、変な楽しさがあることもわかりました。

というわけで、不要な物はどしどし廃棄していけばいいのですが、困るのは捨てるに捨てられない物に行き当たったときというのは誰しも同じだろうと思います。そもそも、どこで「必要な物」と「不必要な物」の線を引いたらいいか、その点に苦慮するシーンがしばしば訪れるわけです。
例えばいろいろな思い出の要素を帯びた品などもそうなら、亡くなった身内の遺品ともいうべき物ともなれば、そうそう安易にゴミ袋に放り込むということもできません。しかし、取っておいてどうするのかとなると、これは甚だ答えに窮しますし、そういうときは片づけのスピードも一気に鈍ってしまいます。

あるいは、そんな精神的な要素が絡まなくても、使う予定もない物の中には、買ったまま使わずしまい込んで忘れていた物、あるいはいただき物などをそのまま置いていただけという場合が少なくありませんが、古くてもモノ自体は新品(というか未使用品)だったりすると、それをそのまま捨てるというのは、断捨離に於いてはこちらの修行が未熟な故か、どうにも抵抗があるわけです。

むろん「欲しい」というような人でも現れれば喜んで差し上げるところですが、そんな都合の良いことがあるはずもなく、結局どうにも始末に困ってしまいます。

こういう場合は、断捨離で云うところの「物への執着」というのとはいささか違い、何の傷みもない新品もしくはそれに近い物を、あっさり捨てるという行為が、例えば大した理由でもなしに木を切ってしまうことのように、ひどく傲慢かつ野蛮なことのように思えてしまいます。

もしかしたら、そういう甘ったるい気分を断ち切り、乗り越えたところに断捨離の極意があるのかもしれませんが、なかなかそんな高みには到達できそうにもありません。
それでも相当量を廃棄しましたから、ずいぶん風通しはよくなったわけで、ひとまずこれで満足することとします。

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