『純と愛』

もう時効だろう…というわけでもないのですが、NHK朝の連続テレビ小説の中でも、3月末で終了した『純と愛』ほどおもしろくないものは過去に無かったように思います。

そもそもこの連続テレビ小説は、昔から話の内容などは説得力のないものばかりで、その点では慣れっこですから、少々のことではこんな風には思いません。

番組作りとしても、半年間、日曜を除く毎日を15分ずつに区切って、一定して視聴者に見せるためには、そう大きな波や偏りがあってはならないでしょうし、できるだけ平坦に、しかも毎回をそれなりにおもしろくすることで「毎日継続して観てもらう」ということが求められるのだと思います。

早い話がテレビ版紙芝居みたいなもので、その内容がどれほど奇想天外で、現実離れしていようとも、あくまでそこはドラマの世界なので、見る側もそれは承知であるし、要は見てそこそこ楽しければそれでじゅうぶんこのシリーズの価値はある筈です。

制作にあたっては、半年間で一作というわけで年間二作、東京と大阪それぞれのNHKによる制作だそうですが、これまでの傾向としては概ね大阪制作のほうが味があっておもしろく、東京のほうがよりNHK的と云うか保守的で、娯楽の要素ではいつも負けているという印象でした。
それもある意味当然で、なんといっても大阪はボケとツッコミを身上とするお笑いの土壌ですから、そりゃあ大阪のほうがおもしろいものを作ることにかけては一枚も二枚も上を行くのは当然だろうと思っていました。

ところが『純と愛』は、その大阪の制作だったのですからちょっと信じられませんでしたし、東京制作にしてはそこそこの出来だった『梅ちゃん先生』からの落差は甚だしいものでした。
まず主人公の純と、その夫である愛(いとし)のいずれも、(マロニエ君には)人物像としてまったく好感の持てない、図太くて押し付けがましい、自己中人間にしか見えず、これが終始番組の中核になっていたのが決定的だったように思います。

連続テレビ小説のヒロインが、何事にもめげない頑張り屋の明るい女の子というだけなら、毎度のお約束のようなものですが、この純は、がさつな熱血女子で、デリカシーがなく、遠慮というものを心得ない人物でした。それに対して愛は、病的で、辛気くさく、むら気で、「一生純さんを支え続けます」などと大言を吐きながら、ちょっとした事ですぐにつむじを曲げ、容赦なく不機嫌になっては相手を苦しめたりの連続でした。

さらにはこの二人に共通していたのは、何かというとお説教の連射で、何度この二人が画面の前で滔々と白けるような人生訓みたいなものを垂れるのを聞かされたかわかりません。しかも、その内容というのが、いまどきのキレイゴトの空疎な言葉のアリアのようで、聞いているほうが恥ずかしくなるようで、耐えられずに何度早送りしたかわかりません。
とくに見ていておぞましいのは、年端もいかない若い二人が、いい歳の大人や他人を相手に、この手のお説教をするという僭越行為であるにもかかわらず、それがさも人の心を動かす尊いことのように取り扱われている点で、聞かされた相手は、ドラマとはいえ、最終的に必ず改心したり生まれ変わったり感動したりというような反応を見せるのですからたまりません。

ほんらい連続テレビ小説は、ごく短時間、ちょっとした楽しみのために見る軽いスナック菓子のようなドラマであるはずなのに、家族を不幸に陥れて最後は溺死する父親、若いのにアルツハイマーになる母親、生活無能力者のような兄と弟、さらには脳腫瘍で倒れ、手術後も最後回まで意識回復できない愛(夫)等々、あまりにも暗い要素ばかりが折り重なって、非常に後味の悪い、暗いドラマだったという印象です。

続いて始まった東京制作の『あまちゃん』は東北の漁業の街が舞台ですが、これは開始早々笑える明るいドラマで、いっぺんに空がパァッと明るく晴れたようです。

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