ピリスの奏法

今年3月、すみだトリフォニーホールで行われた、ピレシュ&メネゼスのデュオ・リサイタルの録画を見ました。
ピレシュは日本では長らく「ピリス」といっていたポルトガル出身のピアニストで、グラモフォンなどはいまだにCDの表記はピリスで通しているようです。本来はピレシュというのが正しいのかもしれませんが、これまで長いことピリスと云ってきたので、ここでも敢えてその呼び方で書きます。

前半はホセ・アントニオ・メネゼスによるバッハの無伴奏チェロ組曲第1番で、ピリスはそのあとのベートーヴェンのチェロ・ソナタ第3番で登場しました。

演奏はさすがにある一定のクオリティというか、音楽的な誠実さ、質の高さを感じますが、実際のステージとなるとピリスのピアノはいかんせん軽量コンパクトに過ぎて、CDで聴くような繊細な表現は伝わりません。というか、そもそもこの時はそれほど気合いの入った演奏をしていないという感じだったというほうが正しいかもしれません。
少なくともマロニエ君は、彼女がいま獲得している高い名声に値する演奏をしたようにはどうしても思えないものでした。

それとは別に、この人の演奏を聴いていて、CDなどでも以前から気になっていたことが少しわかったような部分があり、これはこれで収穫でした。

それはピリスの演奏に潜む、ある矛盾についてでした。
弱音域で展開される、目配りの行き届いたデリケートな演奏はたしかに上質なものがあるけれど、フォルテやスタッカート、あるいは弾むようなパッセージになると、たちまち音やリズムが粗雑になり、この人のみせる(聴かせる)芸術性にどこかそぐわない、ちぐはぐな印象を受けるところがあったのです。

それは、少しでも強い音や小刻みなリズムを必要とする場所になると、必ずといっていいほど上から鍵盤を叩くことで、それが音にも反映されていることがわかりました。
それは彼女が小柄で手も小さいということもあるかもしれませんが、ピアノのアクションを含むすべての発音機構はこの点でも非常によくできており、叩いたりはじいたりすれば、正直にそういう音になる。

また、ピリスの場合、叩くときはえらく敏捷に手を上げ下げしていますが、その小さくない上下運動によるロスを取り戻そうとするのか、そのときに若干リズムが乱れ、結果として逆につんのめるように早くなっている気がしました。同時に、これをやるときは注意がそちらに逃げるのか、音楽的な配慮がやや散漫になってしまうのだろうと思われました。

そのためか、弱音のコントロールで非常に高度な演奏表現を達成しているのに、こういう場面では粗い音色と性急なリズムが顔を出し、全体の素晴らしさは感じつつ、どこかもうひとつ引っ掛かる感じが残るのだろうと思います。ピリスは、表向きはいかにも筋の通った高尚な音楽を描き出す数少ない音楽家のようなイメージになっていますが、この点ではまさに技巧上の事情があるのか、矛盾を抱えたピアニストだと思いました。

叩く音は、どうしても硬質な衝撃音となり、音量の問題ではなく、ピアノの音が割れる、もしくは割れ気味になってしまいます。深みのある静謐な弱音コントロールが売りのピリスの演奏の中で、随所にこうした配慮を欠いた音色が紛れ込むのは、他がそうでないだけに一層耳に違和感を与えるのだろうと思います。

小柄で手が小さいと云っても、ラローチャは潤いのある充実した響きを持っていましたし、誰も聞いたことはないけれど、かのショパンも女性のように小さな手であったにもかかわらず、その演奏は一貫して絹のようななめらかさがあったと伝えられていますから、やはりそこは演奏家自身の価値観と美意識によって決定される問題ではないかと思いました。

ピアノはヤマハのCFXですが、どうもこのピアノはデビュー当時のような輝きを感じなくなり、響きがだんだん平凡で薄っぺらになってくるような気がします。ピリス以外でもこのところホジャイノフなどいくつかの演奏で聴きましたが、ちょっとフォルテになるとたちまち限界が見えるようで、そのあたりがいかにもピンポイントで性能を磨いた現代のピアノという印象。生産開始直後の個体はよほど気合いを入れて作られたということかと、つい勘ぐりたくなります…。

ピリスの奏法」への1件のフィードバック

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    ラローチャや、ましてショパンと比べるのは彼女の評価に鑑みても酷かと…

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