カラヤンの陰鬱

クライバーのドキュメンタリーが放送された翌週だったか、今度は昨年制作のカラヤンのドキュメンタリーが放送されました。

基本的には似たような作りで、彼を知る証言者たちが映像や音声を聞きながらひたすらコメントを繰り返すというスタイルであるばかりか、中にはクライバーのときとまったく同じ人なども出てきて、なんとなく二番煎じという印象を免れませんでした。

しかし、視聴者の受ける全体の印象としては、いやが上にも惹き込まれ、その魅力に魅せられ、感嘆するばかりのクライバーとは打って変わって、カラヤンはフルトヴェングラー亡き後の音楽史上、最も有名な大指揮者であるにもかかわらず、どこか陰鬱で暗いイメージが見れば見るほど上から上から塗り重ねられるようで、少しも心の浮き立つものがなかったのは、カラヤンに対する好みを別にしても、まったく意外なものでした。

ひとりの偉大な音楽家というよりは、この世界の頂点に君臨し、帝王などといわれたのはあまりに有名ですが、まずその表情がいつも重苦しく、いつも法外な独占欲と言い知れぬ孤独感に包まれているようで、見ていてちっともひきつけられるところがありませんでした。とくに録音スタジオのモニタールームなどでは、大勢の関係者に囲まれながら、彼がひと言ふた言、言葉を発するたびにまわりが過剰なまでにそれを引き取ってご大層に笑い声を上げる様などは、まさに孤独な権力者と、それを取り巻いて御機嫌を取る人達という構図そのものでした。

彼の演奏に内包される是非をいまさら言い立てる気もしませんが、彼自身、音楽が好きで純粋にそのことをやっているというより、自分の打ち立てた偉業を、より強固で、より大きく、より高く積み上げんがために、必死に業績作りと権力維持に励んでいるようにしか見えません。

また、数人の証言者達は、カラヤンの音楽的な優秀さをこれでもかとばかりに褒めそやしますが、なんだか…どこかわざとらしく、カラヤンの死後も尚、まだゴマをすっているか、あるいは何かの計算が働いてそういう発言をしているというように(マロニエ君の目には)感じられてしまいます。

カラヤンの時代は、指揮者に限らず華やかな大物スターの時代であったことは間違いありませんが、同時になんともいえない、重苦しい分厚い雲がかかっていた時代のようにも思います。
カラヤンのおかげで大活躍したベルリンフィルも、カラヤン故により自由な演奏活動の可能性を厳しく制限されていたとも思います。今のほうがベルリンフィルは世界最高のオーケストラのひとつとしての自由を得て、その存在感をのびやかに示していますが、カラヤンの時代はまさにカラヤン帝国の道具のひとつであり、彼を支えるための親衛隊のような印象だったことを思い出します。

マロニエ君はカラヤンをとくに好きだったことは一度もなく、それでも否応なしにカラヤンのレコードを避けることはできない時代の流れというものがあり、気がつけばLPやCDだけでも夥しい数が手許にあるのが、自分でも不思議な気分です。そして今それを積極的に聴こうとしないのも事実です。

聴くとすれば、今どきの、線の細い、けちくさいのに自然派を気取ったような、要するに貧しくも偽善的な演奏にうんざりしたときなど、その反動から、カラヤンの華麗でゴージャスな演奏を聴くことで、しばし溜飲を下げる役目を果たしてはもらいますが、それが済めば再びプレーヤーへお呼びがかかることはなかなかありません。
無農薬のどうのという講釈ばかりでちっとも楽しくない料理ばかり食べさせられると、単純にケンタッキーフライドチキンなんかをがっつり食べたくなるようなものでしょうか。

カラヤンは、要するに音楽界におけるひとつの時代を象徴するスーパースターであり、いわば彼自身が時代そのものであったのでしょうけれども、その演奏が、クラシック音楽のポピュリズムに貢献したことは認めるとしても、真に人の心の深淵に触れるような精神的核心に根差した音楽をやっていたかとなると、この点は甚だ疑問のような気がしますし、その点をあらためて問い返すような番組だったと思いました。

カラヤンのおかげで、20世紀後半のクラシック音楽界は巨大な恩恵にも与り、同時に損もしたような気がします。

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