贅沢はテレビサイズ

家人の古い友人で、不動産関係の会社をやっている方が来宅されたのですが、曰く、最近の若い人は家やマンションを買っても、今風の低価格な家具を最低限度揃えると、あとは専ら電気製品などに注意が向くだけで、気質に情緒や潤いがないということを話しておられました。

どこの所帯もほとんど区別できないほど似たような雰囲気になってしまうそうで、いずれの場合も目につくのは、一様に物が少なく、パッと目はきれいなようでも、まさに衣食住の生活をするためだけの空間が現代風になっているに過ぎず、それ以外の本や絵や…何でもいいけれども、要するに実用品以外のおもしろいものとか美しいものがほとんど見受けられないのだとか。
そして、殺風景なその雰囲気の中で、ひときわ存在感を放っているのがテレビなのだそうです。

住まいとしての全体の規模、わけてもそのテレビの置かれた部屋の空間の広さに対して、そこに鎮座するテレビだけが、ギョッとするほど大型サイズで、それにだけピンポイントに贅沢しましたという状況なのだとか。業界人から見ると、皆けっこうしまり屋のクセに、テレビだけはどうして大きいのを欲しがるのか、さっぱりわけがわからないと嗤っておられました。

今の若い世代は、新しい住まいを手に入れても、実用品が必要というのは当然としても、そこに絵の一枚でも買って飾ろうという情感や心のゆとり、早い話が文化意志から発生する考えそのものがほとんどないようで、住居に於ける白い壁という、いわば自由な画布を与えられても、そこには大型画面のテレビを置くこと、そのためのテレビ台、もしくはそれに連なる家具を購入し、あとは申し訳程度に観葉植物を置くというぐらいな発想しかないというわけで、言われてみれば大いに思い当たりました。

家には必ず美術品だの楽器だのと何か高尚なものを置かなくてはいけないというものではないし、それはもちろん人それぞれの自由ですが、少なくとも自分の住まいに、その種のものが一切無くても何の抵抗もない、あるいは置いてみたいという発想さえないという感性には、やはりある種の驚きを感じてしまいます。

同時に、これは詳しくは知りませんから想像ですが、おそらく欧米ではおよそ考えられないことではないかという気がしますし、少なくともマロニエ君の知る数少ない外国人は、それぞれがいかに自分の住まいを美的で快適に、しかも自分の求める主題のもとにまとめ上げ、工夫をしながら創り上げるかという点では、かなりの拘りがあったことを思い出します。

いずれにしろ、家の中でテレビが一番エライような顔をしているあの雰囲気というのは個人的には好きではありませんし、知り合いの大学の先生はもっとはっきりと「自分はテレビのある家というものが嫌いだ」とおっしゃって、現にそのご自宅にはまったくそれらしきものは見あたりません。

それはさすがに極端としても、部屋に対して誰が見ても過剰な大画面テレビを置くというセンスは、申し訳ないけれども、そこの住人があまり賢そうには感じられないものです。
とくに薄型のデジタルテレビの時代になってからというもの、その傾向には拍車がかかり、それこそくだらないテレビ番組で紹介されたりするセレブだなんだというような人達の豪邸とおぼしきところには、途方もないサイズのテレビが贅沢さの象徴とばかりに誇らしげに置かれていたりして、それをまたレポーターなどが必要以上に驚愕してみせますが、根底にはそんな影響もあるのかと思います。

文化などという言葉を軽々しく使うのもどうかとは思いつつ、たしかにその面での意識レベルは下降線をたどっているとしか思えませんし、今では文化というと、決まってサブカルチャーだのアニメだのというジャンルばかりに人々の関心が偏重するのは、どうしようもなく違和感と危機感を感じます。

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