今年の2月にミュンヘン・フィルハーモニー・ガスタイクで行われた、メータ指揮のミュンヘンフィル演奏会の様子がBSプレミアムで放送されましたが、この日のメインは五嶋みどりをソリストに迎えたブラームスのヴァイオリン協奏曲でした。
五嶋みどりさんが、世界的なヴァイオリニストであることに異を唱えるつもりは毛頭ありませんが、美味しい食事にも食後感、読書にも読後感というものがあるように、音楽にも聴いた後に残るイメージといいましょうか、いわば残像のようなものが残りますが、その点で云うと、マロニエ君は五嶋みどりの演奏にはある一定の敬意は払うものの、心底その演奏に酔いしれるとか、音楽としての感銘を受けたという記憶はほとんどありません。
CDなどもそうですが、まったく非の打ち所のない、隅々まで神経の行き届いた大変見事な演奏ですが、この人は本当に音楽が好きなのだろうかと思わせられるのも毎度のことで、芸術家というよりも、完全無欠な仕事師の最上級の仕事を拝見しているという印象しかありません。
ブラームスのヴァイオリン協奏曲はマロニエ君の最も好きなヴァイオリン協奏曲のひとつですが、この曲の持つ暗い陶酔的な世界と、五嶋みどりの演奏にはなにやら超えがたい溝があるように感じました。
第1楽章では、長い序奏を経てソロヴァイオリンが闇の中から突如妖しく現れますが(この部分でマロニエ君が最も理想的と思えるのはジネット・ヌヴーのそれですが)、五嶋みどりはこれ以上ないというほど激しく、曲に挑みかかるように弾いていきます。
それがあまりにも度を超していて、見ていてちょっと呆気にとられるほどで、狙いとしては下手をすると冗長にもなるブラームスで、高い緊張感を保ちつつ聴く者を圧倒しようということなのか…真意はどうだかわかりませんが、この人のいかにもストイックでございますという生き方はともかくも、少なくとも演奏の点に於いては、かなりの自己顕示欲が漲っているようにしか思えません。
協奏曲であるにもかかわらず、指揮者を見ることもほとんどなく、音楽上自分が譲るとか裏にまわると云うことは一切ないまま、徹底してマイペースで突き進んでいくのは共演者に対してもちょっとどうかな…と思います。
全曲を通じて、常に自分の演奏を際立たせ、細部の細部に至るまで自分が主役であり、会場の中心は私であるといわんばかりに振る舞っているように見える(聞こえる)のは、ああ、この人は昔からこうだったという記憶が鮮明によみがえってくるばかり。
それでも、なにしろ基本的に上手いし、チャラチャラしたタイプではないので、最終的に立派な演奏として完結はするけれども、非常に突っ張った、極端に意地っ張りな人の勝負精神を見せられるようで、音楽としての豊かさとか、ほがらかさ、楽しさといったものがちっともこちら側に伝わってこないのは、やっぱり演奏しているその人がそうでないからなんだろうかと変に納得してしまいます。
それでも感心するのは、第2楽章のような滑らかな旋律が延々と続くような部分では、決して息切れすることなく細い絹糸のような芯のある音が、括弧とした動きを取り続けるようなとき、あるいはフレーズの入りの部分では、いつもながら的確で繊細で、こういうところは彼女ならではの上手さを感じます。
逆にいただけないのは、激しい部分ではあまりに切れ味先行型の演奏になるためか、過剰なアクセントの濫用で、ときに品位を欠く演奏へと陥るばかりか、リズムも崩れ、何のためにそんなに力みかえらなきゃいけないのかと、聴いているこちらのほうが気分が引いてしまいます。
そういうとき、ふとヴァイオリンを弾いている音楽家というよりは、どことなく剣術の果たし合いのようで、この不思議な女性の中に、一体なにがうごめいているんだろうと思ってしまいます。
マロニエ君は基本的に情熱的な演奏は大好きなのですが、かといって、こういう演奏をもって情熱的とは解釈できないのです。
あれじゃあ弓の毛も傷むだろうなあという感じですが、たしかに五嶋みどりは演奏中もしばしば切れた毛をプチプチとむしり取る回数がほかの人よりも多いような気がします。