趣味の条件

先日、ピアノ趣味の同好の士を募ることの難しさを書きましたが、それはひとくちにピアノといっても、その楽しみ方があまりに多岐に渡っているため、まとまりを取ることが非常に困難という、ピアノの特殊性があるという意味のことでした。

それはそれとして、趣味道というものは可能なら仲間が集い、その魅力はもちろんのこと、苦楽や悲喜劇をも楽しく語り合って共感を得、同好の士との親睦を深めつつ情報交換にもこれ努めるなどがその醍醐味だということに今でも異論はありません。

そのいっぽうで、専ら人前で弾くことが好きな人という種族もあるわけで、これはあくまでも聴く人(もしくは見てくれる人)を必要とするのが、マロニエ君に云わせれば通常の趣味道とはちょっと趣が異なるような気がします。こういう人の中には、家にも立派なピアノがあり、その気になれば存分にそれを弾くことも可能であるにもかかわらず、それでは精神的に飽き足らないようです。

それも拙いながらも人に聴かせたいという純粋な動機ならまだ微笑ましいと解釈もできるのですが、人前で弾いている自分やそれに伴うある種の緊張や興奮の虜となり、それがために自分が主役となるための互助会的関係で人と繋がっているというのは、純粋な音楽の演奏動機とは似て非なるもののように感じます。

そうはいっても反社会的行為でない限りは、個人の自由であることはいうまでもなく、その範囲内でどのように楽しみを見出そうとも、それは咎められるものではないでしょう。ただ、ピアノのある場所を借りて互いに何時間も取り憑かれたようにただ弾きまくるということが、果たして趣味といえるかどうかとなると、少なくともマロニエ君には甚だ疑問です。

趣味というものに、附帯的に仲間がいるということは嬉しいことであり、心強いことでもありますが、そもそも趣味の根本にあるものは突き詰めれば「孤独」ではないかと思います。
もちろんスポーツなど、集団であることが必要とされるものも中にはありますが、それはレクレーションであったりイベントであったりで、マロニエ君の認識で云うところの趣味の概念からいえば、趣味というものはもう少し違った精神世界であるし、基本的には仲間がひとりもいなくてもじゅうぶん楽しめるという自分自身の基盤を持っていないと趣味とは呼びたくないというこだわりが自分にはあるようです。

その上で、好ましい仲間がいれば、もちろんそれに越したことはありませんし、そこから趣味の道も人間関係も広がればこんな幸福なことはないわけです。
ただ、同じピアノでも、互いに弾き合うイベントや教室の発表会だけを唯一最大の目標にするようでは、これは趣味人としてもずいぶん浅瀬ばかりを這い回る遊び方のように思います。もちろんそれを否定しているわけではないですが。

繰り返しますが、趣味というものは基本的にひとりでじっと楽んで、それでじゅうぶん愉快でなくては本物じゃないというのがマロニエ君の持論です。同時に、どんな楽しみ方があっていいとは思いますけれども、そこに一筋の純粋さが貫かれていなくてはマロニエ君自身はおもしろくないわけです。

マロニエ君は理屈抜きに人と関わることは人一倍好きですが、趣味の合わない人と趣味を語り、不本意に価値観や歩調を合わせることはまったく不本意で、正直疲れてしまいます。
きっと自分が一番好きなことは、他者から土足で踏み荒らされることが嫌で、自分にとって理想の形態で温存しておきたいという防衛本能が働いているのかもしれません。

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